26人が本棚に入れています
本棚に追加
少年ユジーの章
僕は舟を漕ぐ手を止め、護身用小刀を握り締めた。周囲を見渡しても櫂の立てた波がチャプンと云うばかり。
腹部の傷がズキズキと痛み、答える声は掠れる。
「……ぼ、僕はヌェじゃないよ。名は、カン・ユジー。チグサ村から来た……き、君は何処にいるの? 誰なの?」
「此処の住人に御座います」
「……えっ。でも、」
言葉の途中で、泥まみれの袖で鼻を塞いだ。塔内の空気は吐瀉物のように酸っぱく、涙のように辛く、後悔のように苦い。ヒトが住める場所ではないのだ。
姿無き声は、この溝川の続く先から聞こえてくる。
「そんなに怖がらないでください。私はサカウエと申します。訳あって姿を見せられませんが、私もかつてチグサ村の住人でした」
僕の村でその名を知らぬ者はいない。大人が子供を叱るときに引き合いに出す悪餓鬼の代名詞だ。――言うことを聞かなきゃサカウエみたいに塔に閉じ込めるぞ、と。僕もお嬢様も、アイツによく言われたっけな。
「てっきり大人の作り話だと思ってた……」
「私はそんなに有名なんですねえ。オオ、懐かしい我が故郷! ユジー、我が同朋!」
彼は機嫌良く歌う。
「さて。有名人にわざわざ会いに来てくださった……のではありませんね?」
「う、うん。僕は、この奥の祭壇に用事があるんだ。そこで祈ればどんなヌェでも本当になると聞いたから。そのために――」
「――そのために禁を破ったのですか」
僕は縮こまった。こうやって相手が僕の言葉を先回りして奪ってしまう時、その人は僕を叱りたいのに決まっている。担任のルーエ先生も、偏屈執事のナタカさんも、庭師のモンダ爺も、皆そうだ。
僕は罪を犯した。
錆びついた警告板も、無視をした。
〈コレヨリ危険区域・一切ノ立入ヲ禁ズ〉
此処は禁足地。それは村の掟。
血が滴って舟底に溜まる。頭がボンヤリする。僕の脳味噌が勝手に走馬灯に火を灯し、村での日々を反芻する。
最初のコメントを投稿しよう!