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駐屯地出立~黒猫姫と上級魔術師の攻防〜
闇の森制圧計画第二十五次探索開始当夜。
獣人全員が集まった広場の光景は昨日とはまったく違っていた。ほとんどが獣化し、人間の姿でいるのは駐屯地に残る人だけだ。
獣化すると着衣や手荷物などはどこかに消えてしまう。人化するとまた現れる。〝亜空間収納〟と呼ばれているこの能力は移動時に便利で、ラフリクスとイヌエンジュの部隊に配属された獣人が獣化してるのはそういう理由だった。
あたしは駐屯地に戻ってくるつもりだから荷物はそれほど多くないけど、まわりに合わせて黒猫になっている。いつも通り太ももに魔法剣を装着し、背中に背負ったザックには薬草と食料を少し。お父さんからもらった魔力抑制ローブもとりあえずザックに突っ込んだ。
突然イヌエンジュの魔力が消えたらラフリクスに怪しまれるからいつ魔力抑制ローブを渡すか悩んでいたけれど、集合場所に来たら悩みは解決した。
イヌエンジュとラフリクが珍しく魔力抑制ローブを使っていて、「国境警備兵に怪しまれてはいけませんから」とわざわざ師令官に説明している。師令官に居所を感知されたくないからだろうけど、これならどのタイミングで闇の森対応ローブに替えても問題ない。
猛獣獣人たちと一緒にいるグレンが、小型種の群れにいるあたしを振り返って何か言いたげにプランプランと尻尾を振った。猫の姿だからじゃれつくとでも思ってるのだろうか。
グレンにはあたしが知ってることはほぼ話したし、その上でラフリクスが探索部隊を離れたあとイヌエンジュと二人で闇の森を抜けるよう言い含めてあった。あたしは後で追うから、と。
――でも、エリアーナが闇の森を離れてアルヘンソに行くなんて信じられない。
グレンは疑り深い目をあたしに向けたけど、お母さんの影が闇の森から消えたことを伝えると「わかったよ」と渋々首を縦に振った。
「第一探索隊長ラフリクスの部隊として出発する者はこっちに」
師令官の指示で獣人たちがぞろぞろと動き始め、グレンもラフリクスの方へと歩いて行く。残された中型種と小型種は自然と別の場所に集まり、少し離れた場所では爬虫類種と鳥人とが人間の姿で心配そうに出発前の獣たちを見ていた。
ヒルダの目が師令官を追っている。頭頂部は金髪で、長く伸ばした襟足は黒髪。女性には珍しくズボンを履いて、喋り方も仕草も男っぽい。でも、獲物を射るような鋭い視線はとても魅惑的だ。
今夜もキツネモドキの遠吠えが聞こえる。
日暮れ前のスコールで空気が洗われて夜空の星は明るく輝いていた。ラフリクスなら濡れた木々も簡単に燃やしてしまいそうだけど、雨が降っていないよりきっとマシ。イヌエンジュは雨滴をまとったモンキーポッドをホッとした表情で見上げていた。
「じゃあ、おれの隊はこっちに集まって」
そう言いつつイヌエンジュは自分から小型種の群れに近づいて来る。
彼を囲むのはリス、ヤギ、キツネ、サル……猛獣を従えるラフリクスに比べてずいぶん可愛らしい光景だ。それに加えて栗毛の馬が一頭いるのはレニー。馬獣人は足が速いからラフリクスの部隊に回されたけど、レニーはイヌエンジュの足としてこっちに配置されたようだった。
「第一部隊のすぐ後に出発する。密林に沿って行くからあまり広がらないように。魔獣が出てくる可能性もあるから気を抜かないで」
イヌエンジュが話をしている後ろで、「出発」とラフリクスの声が聞こえた。白馬に跨って先頭を行き、その後を大型種と足の速い中型種がついていく。馬は並足から徐々にスピードをあげ、二十数名の第一部隊はあっという間に見えなくなった。足音だけがしばらく聞こえていたけれど、それも風音にかき消される。
「そろそろ――」
イヌエンジュが言いかけたとき、師令官が「イヌエンジュ」と声をかけた。
「師令官。えっと、……何か?」
イヌエンジュはこれまで気安く名前で呼ばれたことがなかったからか警戒し、その反応に師令官が苦笑を浮かべた。
「隊長の君に伝えておきたいことがあるんだ。獣人たちはみんな闇の森を抜けて帝国のアルヘンソ領に脱出させる。君も一緒に帝国に行きなさい」
「えっ?」
イヌエンジュは困惑した顔であたしを振り返り、そのあと自分を囲う獣人たちをぐるりと見回す。そして、自分だけ状況を把握していないことに気づいたようだった。
あたしは人間に戻り、ザックからお父さんのローブを取り出してイヌエンジュに渡した。彼の着ていたローブはあたしが羽織り、ラフリクスに怪しまれないよう前は留めずに奴隷紋の魔力を感知できるようにしておく。
ローブからイヌエンジュの匂いがする。
「イヌエンジュもこのローブを着れば闇の森でも魔力酔いしないんだって」
「おれは良くてもみんなは? あそこの魔力は獣人にとってもキツイはずですよね?」
イヌエンジュはあたしではなく師令官に問いかけた。
「獣人はもともと魔力が少ないから魔術師ほど闇属性魔力の影響を受けない。めまいや頭痛もだいたい数分で回復する。それに、闇の森を通ることで奴隷紋の魔力が効果を失い、ラフリクスの追跡から逃れられるんだ。これまでもずっとそうしてきた」
「闇属性の魔力の影響は少なくても、闇の森はマナ濃度自体が高いです。マナ経路が発達してない獣人はマナ滞留症状を起こすかも」
マナ滞留症状というのは体内で過剰に魔力が錬成され、魔力の元であるマナの通り道が塞がっておこる症状だ。
一般的には魔力のない人間におこるもので風邪に似た症状があらわれるけど、獣人の場合は獣化が制御できなくなる。酷いときは人間と同様に発熱などの症状も出る。イヌエンジュも何度か獣化して戻れなくなった獣人の治療をしていた。
「イヌエンジュの言う通りその危険はゼロではないが、闇の森を抜けるのに長く見積もって二時間程度。マナ滞留症状は長期間高濃度のマナに晒されて起こるものだから問題ない」
「二時間ですか。それなら」
イヌエンジュはホッと肩の力を抜き、改めて獣人たちに目をやった。
「みんな知ってたの?」
獣人たちは『知ってるよ』と言うようにコクコクうなずいている。
「でも、師令官。ここに残る獣人たちはどうするんですか。姫から聞いてませんか? ラフリクス隊長が」
「聞いた。だが駐屯地のことはわたしに任せてくれ。君が思ってるほどわたしは弱くない。それに、ラフリクスの部隊が君の部隊と合流した時点で駐屯地の獣人は密林に入ってもらうつもりだ」
イヌエンジュはエッと声をあげた。
「ラフリクス隊長とは中間地点で合流する予定なんですが、師令官はどれくらいまで奴隷紋の感知ができるんですか?」
「国境付近までなら感知できるから問題ない」
「そう、……ですか」
師令官を見るイヌエンジュの目つきがこれまでと少し変わったようだった。ずいぶん昔に憧れの上級魔術師のことを話していたときと同じ目。
「イヌエンジュに頼みたいのは、エリがここに戻って来ないよう首根っこを掴んでおいてくれってことだ」
師令官は何でもお見通しだという顔で「頼むよ」と他の獣人たちにも声をかける。
馬獣人のレニーがあたしのザックを咥えてグイッと引っ張った。乗れという意味らしく、あたしは素直に黒猫に戻ってレニーの背に飛び乗る。
「遅くなるとラフリクスが怪しむ。そろそろ出発した方がいい」
「そうですね」
イヌエンジュは手綱を手にとり、風魔術なのか、鐙もなしでヒョイっとレニーの背に跨った。
「じゃあ、行ってきます」
レニーが先頭に立ち、第一部隊とは違って並足で草原を抜けた。ふたつ目の赤銅色の月はいつの間にか見上げるくらいの角度になっている。
あたしは駐屯地が見えなくなってから、ニャアとひと鳴きして人の姿に戻った。イヌエンジュの顎に肩がぶつかり「イテッ」と後ろから聞こえる。
「大袈裟だよ、イヌエンジュ。レニーは平気?」
ブルンと鼻息で答えたレニーは二人分の重さも苦にしていないようだった。イヌエンジュがブツブツ文句を言いながら、あたしを抱き抱えるようにして手綱を握り直す。
「エリ、国境越えるにしてはずいぶん荷物が少ないけど説明してくれる?」
イヌエンジュが少々不貞腐れた声で聞いてきた。あたしの背中のザックはローブを渡したからほとんど空っぽだ。
「グレンに全部説明してあるから一緒に闇の森を抜けて。あたしは駐屯地に戻る」
「ダメだよ。首根っこ掴んどけってさっき言われたばかりなのに」
「だって心配だもん。ラフリクスが中間地点まで行かずにそこら辺に潜んでたらどうするの?」
「それはないんじゃない? 獣人たちはまっすぐ国境に向かってるみたいだし、スピードも落ちてない」
「イヌエンジュもこの距離なら感知できるんだ?」
「もしかしてエリも感知できるの?」
そのとき右手の密林からヒュッと魔力が放たれるのを感じた。
あたしは咄嗟に猫になってイヌエンジュのローブに隠れる。イヌエンジュの魔力がローブの中を満たし、彼の体内に魔力が巡る。短い詠唱が聞こえ、魔術発動とともに魔力が衝突した。結界で防御したらしかった。
「やはり裏切ったか、イヌエンジュ」
笑いまじりの声はラフリクス。ローブから顔を出そうとしたらイヌエンジュに手で押さえつけられる。
「ラフリクス隊長、何のマネですか」
「黒猫姫の護衛騎士にでもなったつもりか? 中級のおまえが上級魔術師に逆らって何になる。指示した通りさっさと国境に向かえ。ただし黒猫は置いてな」
「指示通りにしてるじゃありませんか。黒猫姫はもともとわたしの部隊所属です。何が問題ですか?」
「何がだと? おまえの着てるそのローブが問題だ。師令官からの餞別か?」
アッ、とイヌエンジュの慌てた声。
失敗した。ローブを渡すならラフリクスが部隊を離れた後にすべきだった。
「イヌエンジュ、おまえが悩む必要はない。言う通りにしなければおまえを含めここにいる獣人を焼き殺すだけだからな」
ブルッとイヌエンジュが体を震わせる。あたしは強引に人の姿に戻ってレニーの背から飛び降りた。
「あっ、エリ!」
「レニー、走って! みんなも早く行って!」
レニーはあたしと目が合うとイヌエンジュを乗せたままスピードをあげた。逡巡していた獣人たちはレニーにつられて一斉に駆け出していく。
「エリ!」
イヌエンジュの声があっという間に遠ざかる。風魔術で飛び降りることもできるはずだけど、間抜けで優しいゾボルザック駐屯地の治癒師イヌエンジュが獣人たちをほったらかしにするわけがない。
「これで満足?」
「今のところはな」
獣人たちの足跡がまだ乾ききっていない地面に残っていた。密林のそばに立つラフリクスとあたしとの距離は三メートルほど。
「タカイラのような趣味はないから安心しろ。まだ殺しはしない。おまえの父親に聞きたいことがある」
一気に間合いを詰めれば魔法剣が届くかもしれない。もしくは不意をついて獣化し、露出した肌を引っかく。
「おい、抵抗しようなどと考えるな。おまえはたしか子どもの獅子獣人と仲良くしていたようだが」
「グレンに何かしたの?」
「生意気な小僧だ。言う通りにしないと黒猫姫を殺すと言ったら牙を剥いて睨んできた」
国境に向かうグレンたちの気配に変わりはない。ラフリクスはあたしの感知能力を知らないから軽い脅しで動揺させられると思ってるだけ――頭ではそうわかっているのに焦りが生まれる。
「そう警戒するな。おまえを殺したところでイヌエンジュの感知能力では気づかないかもしれないが、夜が明けるまでは生かしてやる。それまで駐屯地でひと仕事だ」
ラフリクスはあたしがどこまで知ってるか探りを入れたいようだった。せめて駐屯地に残った獣人が密林に入るまでは彼を引き留めておきたい。
「駐屯地に戻って何をするつもり?」
「イヌエンジュから聞いただろう?」
「タカイラに罪を着せるんじゃなかったの?」
クッとラフリクスは口の端を歪める。
「余計なことばかりほざいて時間稼ぎのつもりか?」
ラフリクスは右手をあたしに向けて詠唱をはじめた。その手のひらの前に青白い光で魔法陣が紡がれていく。構築速度が異様にゆっくりなのは自分の能力を見せつけたいのだろう。この機会を逃すわけにいかなかった。
あたしは密林に向かって駆け、ラフリクスの死角で魔法剣を抜いた。
「悪あがきか」
ラフリクスが魔法陣をあたしに向ける。あたしは柄を握る手に力を込め、剣を払って魔法陣を斬った。バチッと稲妻が走り、魔法陣は消失する。
「なっ!」
ラフリクスの表情を確認する余裕もなく、あたしは黒猫に変身して密林に飛び込んだ。
「隠れても無駄だ。おまえには奴隷紋が刻まれてる。密林ごと焼かれたくなかったら姿を見せろ」
密林の奥に逃げ込めばこの男は迷わず火を放つだろう。猫の姿なら油断するかもしれない――そう期待して木の陰から顔を出したとき、ドンと魔力波に吹き飛ばされた。
魔術ではないただの魔力波は、魔剣士が剣に魔力を注ぐのと同じように詠唱など必要ない。
体を起こそうと地面に手をついたとき、人化しているのに気づいた。上級魔術師の魔力だと奴隷紋に触れなくても人化できるようだ。
落とした剣がシダの陰に見え、あたしは慌てて手を伸ばした。
「おっと、それは没収だ」
魔力縄があたしの手首に巻き付く。
「猫には首輪の方がいいかもしれないが、うっかり首を絞めて死んでしまったら師令官殿に申し訳ないからな」
あたしの手を踏みつけて、ラフリクスは魔法剣を拾い上げた。
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