732人が本棚に入れています
本棚に追加
下を向いたまま、早く着いてくれと祈っていたら、男の方から息を呑むような音が聞こえてきた。
「それは、なんと読むんだ?」
「え……」
男が急に話しかけてきたので、何か間違いを犯したのかと佐倉の心臓は飛び出しそうになった。
一瞬考えて、腰に下げているネームプレートのことかと気がついた。
防犯上確認しなければいけないのかもしれない。
急いで口を開いた。
「さくら、です」
切れ長に見えた男の目が大きく開かれて、唇がわずかに震えているように見えた。
まるで幽霊でも見たような顔に、緊張よりどうしたのかと不安になってしまった。
「すみません、何かお気に触るようなことがありましたか?」
「い………いや、すまない。知り合いに同じ名前の者がいたから、気になっただけだ。忘れてくれ」
さくら、だけ名前を聞くと、女性に多くつけられる桜を連想されることがある。
こんな最強のイケメンみたいな人も、忘れられない女性でもいるのかなと思うと少しだけ気が楽になった気がした。
このまま静かな時間が流れて、こんな刹那の会話などすぐに忘れるだろう。
そう思っていたのに、突然ガタンっと音が鳴って、エレベーターが緊急停止したので、佐倉は思わずカートに掴まって耐えた。
「なんだ、何が起きたんだ?」
エレベーターが落下するんじゃないかと、動揺してビビりまくる佐倉と違い、若い男は冷静にエレベーターの通話ボタンを押した。
『大変申し訳ございません! 点検中のエレベーターの影響でこちらの電力も止まってしまいました。復旧を急いでいますので、今しばらくお待ちください』
慌てた様子で、警備室からの声が聞こえてきて、若い男は頼むと言ってから、先ほどと同じように壁に背をもたれた。
佐倉は心臓がバクバク鳴って倒れてしまいそうだったが、男が冷静でいてくれたので、なんとか正気を保っていた。
「……災難でしたね」
「ああ、まったくだ」
こうなったら無言でいることが、逆に恐くなってしまった。
いつもは無口な佐倉も何か喋っていないと落ち着かなくて、つい男に話しかけてしまった。
完全に見た目の厳ついオーラから冷たく返されそうだと思ったのに、男は意外と気さくに言葉を返してきた。
逃げ場のない空間に、初対面で、立場が違いすぎる男が二人。
何一つ共通点など見出せない。
だけどさっきより呼吸が楽になって、悪い気持ちにはならなかった。
予期せぬ災難が重なった、夜中のエレベーターで偶然の出会い。
不思議な縁を感じてしまった。
□□□
最初のコメントを投稿しよう!