10.心は揺れ動く

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10.心は揺れ動く

「……理想、か」  数秒の沈黙の後、クロードは自嘲混じりに呟いた。  その理由を聖奈(せな)には知り得ない。けれど、そこには侮蔑(ぶべつ)の色はなかった。むしろ――。 「貴殿は、魔族を救うと?」 「この場所に逃げ延びた人たちを見捨てたりしません」 「その上で、人間も神族も殺さず、いずれは手を取り合いたいと?」 「そうでなければ、またこんなことが起きてしまうから」 「――この世界の異様な在り方を、変えると?」  淡々とした問いを投げられ、聖奈は少しだけ息を飲んだ。  突然表情を隠し始めたクロードが怖く見えたのもある。けれどそれ以上にこの選択はとても大きなものなのだと改めて気付いて、ほんの少しだけ不安になったのだ。  だが次の瞬間には不安は消えていた。ここで諦めて見て見ぬふりをし、逃げ出した方がずっと後悔すると思ったからだ。  きっと簡単なことではない。今日この場所で、こんなにも短い時間でも魔族と他種族間の隔たりは深く、深刻であると思い知らされたのだから。それでも。 「変えたい……、いいえ、変えてみせます。今すぐは無理かもしれないけど、争いも憎しみ合いも繰り返しちゃいけない。それを終わらせるために在り方を変える必要があるのなら、挑んでみせます!」  決めたからには諦めたりはしない。  たとえ誰の協力も得られずとも。理想を叶えること出来ず、打ちひしがれたとしても、思い描いた何かをやる前から投げ出すなんてあってはいけない。  はっきりと宣言した聖奈の視線の先、無表情を貫いていたクロードの顔がほんの少しだけ歪んだ。  一瞬だけの変化。それを、聖奈ははっきりと捉えていた。 「そうか……」  小さな呟き。溜息。  少しして、クロードは大振りの剣をゆっくりと構えた。 「ならば、私は〈勇者〉として、国と民を、盟友たる神族を守るために障害を……〈魔王〉セナ――貴殿をこの場で討たせてもらおう」  向けられた刃こぼれもなく美しい剣の切っ先が、木々の合間から降り注ぐ光に閃く。眼前に突き付けられたわけでも、喉元に突き付けられたわけでもないのに、その迫力に尻込みしそうになった。  おそらくこの剣の一太刀で、聖奈はあっけなく死んでしまうだろう。  残念ながら聖奈に武術の心得などない。それらしいものといえばせいぜい学校で学んだ柔道の受身くらいで、そんなものを身につけているからといったって振るわれる剣を難なくかわすことも出来はしない。自分が弱いという自覚がないはずもない。  剣を抜いたクロードを見て、これまで事を見守ることしかしていなかった兵士たちまで武器を構え始める。すぐそばにいた兵士は後退りで少しずつ距離を取り、最後まで動かなかったのはユーシスだけ。  彼らに一斉に襲いかかられでもしたら、間違いなく死ぬ。もしかしたらという可能性すらありはしない。  逃れようのない命の危機を理解して体が小刻みに震え、嫌な汗が伝う。  宣言した以上、この場所で死ぬわけにはいかない。なにか、どうにか打開策を。と、頼りない思考を回転させ始めたその時だ。 「丸腰の女の子相手に、正気かよ〈勇者〉サマ?」  やけに落ち着き払った声が聞こえたかと思えば、ふわりと何かに背後からそっと包まれた。それが何なのかを理解した時には、聖奈は片手で引き寄せられて抱え込まれていて。 「いくらなんでもこれは、〈勇者〉としてや英雄として以前にヒトとしての在り方を疑うぜ」  見上げると思うよりも近い場所にその青年の顔はあった。 「ウェイン……?」  ダークブルーの短髪を僅かに揺らし、アクアマリンの双眸を鋭く細めてクロードを睨み見据えるのはウェインだ。彼は左手で聖奈を抱き寄せながらも、右手で握り締める拳銃の銃口をクロードに向けていた。  呆然としたような声で名を呼んだ聖奈に、ウェインはちらりとこちらを見て小さな笑みを作る。 「はろー、セナちゃん」 「どう、して……?」  ウェインは遺跡の中に、拘束されていたはずなのに。  その疑問が伝わったのかどうなのか、何か言おうとした彼の言葉が阻まれる。 「人間の、男……!? 貴様、どこから!?」  困惑したように声を荒らげたのはユーシスと呼ばれていた男。彼はようやく鞘から剣を抜き出しながらウェインに信じられないものを見るような目を向けていた。 「別に、そんなのはどうでも良くないか? 騎士サマ?」 「っ……! 嘲るような物言いを……! それに、まさか貴様、人間でありながら魔族に味方するつもりじゃないだろうな!?」 「魔族に味方ぁ?」  きょとん、とした表情を浮かべたのは極僅か。すぐに表情を歪めたウェインは小さく嘆息する。 「んなつもりはねぇよ。魔族が怖いのはあんたらと同じだ」 「なら何故、〈魔王〉を守り庇おうとしている!?」  そうだ。いくら自分では否定しようが聖奈は〈魔王〉で、その肩書きを持ち出した。故に聖奈は人間と神族たちにとって、この場に居合わせている者たちにとって、間違いなく〈魔王〉だ。  〈魔王〉とは魔族の王たる者だと、ルキフェルは言っていた。その認識はきっとこの世界では当たり前のようにされているもののはずだ。  だから、ウェインが聖奈を庇うのはおかしいのである。  彼は人間で、聖奈は〈魔王〉だから。ウェインにとっても聖奈は畏怖すべき、あるいは討つべき敵で、〈勇者〉たるクロードが率いる人間と神族に味方するのが正しいのだ。  聖奈はハッと我に返るようにそれらを思い出し、肯定の言葉を口にしながら慌てて離れようとして、 「そっ! そうだよ、貴方は……!」 「――〈魔王〉だのなんだのは関係ねえよ」  思わず閉口してしまった。  だって、そうだろう。自分は人間であると自称したのは確かで、けれども彼は魔族たちに捕まる形であの広間にやってきて、聖奈と少しだけ言葉を交わしたに過ぎない。  ウェインには聖奈を見捨てるだけの理由はあっても、聖奈を守ろうとする理由は一切ないのだ。それなのに。 「俺にはこの子がただの人間にしか見えなかった。そんな子が飛び出していって、あんたらの目の前に立ちふさがっていたとして、見て見ぬふりなんざ出来るかって話だ」  彼はそんなことを当たり前のように言うのだ。  本当ならそれを、聖奈は拒絶するべきなのだろう。不要な(いさか)いの種を、彼に蒔かせるべきではないのだから。  けれども、安堵してしまっている自分がいるのもまた事実で。だが、それでも。 「貴様は何もわかっていない! 人間の姿かたちをしているだけで、その小娘は〈魔王〉であるという! その本性は魔族と変わりない可能性だってあるだろう!」 「それは純血の魔族と同じように、ってことか? それならとっくにあんたや兵士どもは吹き飛んでるだろうな。……丸腰でも軽い動作でどれだけの事ができるか、騎士サマも知らないわけではないだろう?」  理解をしようとする気配すらなく、ただただ怒りを露わにして怒鳴るユーシスが、きわめて冷静なウェインの言葉にぐっと口篭る。  その直後、視界の端で何かが閃いたかと思えば次の瞬間には聖奈の足は地面から離れていた。何が起きたのか、と理解しようとして目撃したのは切り込んできたクロードの姿。 「貴殿の言い分は理解した。ならば、――私は貴殿ごと〈魔王〉を斬り伏せるとしよう」  静かに、ただ静かに。怒りも喜びもない、凪のような声でそう告げたクロードの目は、感情もなく聖奈たちを見ていた。 「マジかよ……!」  動揺を隠せない声で零したのは、聖奈を抱えたままクロードの斬撃を飛び退くことで避けたウェインだ。少し後方に着地をしながらウェインは小さく嘆息する。 「無関係の人間がいてもお構いなしなのは想定外だな」 「〈勇者〉と呼ばれる人間が、多少不測の事態に直面したところで止まるはずがなかろうが! たわけめ!」  と、ウェインへと怒鳴り散らしたのはすい、と飛んで近くにやってきたルキフェル。ウェインが苛立たしげに睨むのにも構わず、ルキフェルは言葉を続ける。 「貴様のような小僧がいたところで、無為(むい)に命を落とすだけだ!」 「あ? ぬいぐるみが随分と偉そうじゃねえか?」 「ウェイン! ルキフェルの言い方は厳しいけど、このままじゃ巻き込まれちゃうのは確かだよ! 今ならまだ逃げられるはずだから離れたほうがいい!」  低く唸るような声でルキフェルに食ってかかったウェインに慌てて言うと、彼は少しだけ驚いたように聖奈を見た。  だがそれもほんの僅かなことで、すぐに真剣な面持ちで口を開く。 「あれだけの啖呵を切った奴を、そう簡単に逃がすような奴等だと思うか?」 「それでも私は貴方に逃げて欲しいと思ってる。貴方は紛れもない人間で、彼らに守られるべき存在で、彼らが守らなきゃいけない存在なんだから。〈勇者〉の目的はあくまでも〈魔王(わたし)〉だよ、同族(あなた)じゃない。そうでしょ? ――クロードさん」 「っ!!」  どん、と強くウェインを突き飛ばして、聖奈はすかさずその場にしゃがむ。間髪容れずに風切り音と共に軌跡を描いた鈍色。  たった一歩。ほんの一瞬。それだけで派手に鎧の音を鳴らすこともなく迫り剣を振り抜いたクロードが、僅かに眉を下げて薄く笑った。 「我らの前に立ち塞がらないのであれば、此方への攻撃行動を取ったわけでもない同胞に手を掛ける理由はないな」 「それなら良かった。考慮されなければどうしようかと」  ならばこれで良い。この選択が正しい。これ以上彼は巻き込んではならない。  続けざまに振るわれるクロードの剣を全てぎりぎりのところで避けながら、聖奈もまた小さく笑みを作る。 「おい、待て……っ!」  不服そうに声を荒らげるウェインが、視界の端でユーシスによって阻まれたのが見えた。 「おとなしくしろ、死にたくなくばな!」 「邪魔だ! 退け!!」  そのまま拘束しようと伸ばされた手を避けて、けれどもユーシスに攻撃は出来ないのだろう。構えていた筈の銃は降ろし、ただ押し退けてこちらに来ようとしているウェインに、聖奈は少し胸を撫で下ろす。  聖奈自身は変わらず危機に瀕したままだが、それでも巻き込むべきではない人を遠ざけられたことは喜ばしいことだからだ。  しかし、此処からどう打開したものか。  勝敗は見えているとはいえ、クロードに応戦することもまたひとつの手ではあるだろう。何せ彼は()()()()()()()()()()()。  本来のクロードならば、聖奈と対峙するなど赤子を相手にするようなもののはずだ。〈勇者〉だとか〈魔王〉だからとかではない、クロードはウェインに抱えられて避けた一閃以降、あるいはそれさえも加減しての一撃しか繰り出してはいないのだから。  でなければ、聖奈が彼の動きを視認できるわけがないし避けられるはずがない。少なくとも聖奈には自分の身体能力が向上したような感覚を一切抱いていない。体が軽いとか、そのようなものはない。変わっていないのだ、自分は、何一つとして。  突き出された鈍色が、避けた聖奈の髪を数本撫でる。持ち替えられてそのまま薙ぎ払われる剣をどうにか避けて――踏み込んでくる足音と金属の音が耳を叩いた。 「セナ!!」  名を呼ぶ鋭いルキフェルの声と、音の出処へと振り向いたのは同時。僅かに崩れた姿勢で見たのは切り込んでくる複数の兵士。  血の気が引いた。頭から冷水をかぶったかのような、急激に熱が失われたかのような感覚。  あ、これは、だめだ。  構えられた複数の鈍色を見て、理解する。理解させられてしまう。皮肉なことにクリアになった頭は迫る兵士たちの奥で弓を(つが)えて構える兵士や、様々な色をした淡く輝く光を纏った法衣姿の者までいることを捉え、目の前の兵士を凌いだところで逃れられないのだとわかってしまう。  あれだけ偉そうなことを宣っておいて結末はあっけないものだな、と自嘲したい気持ちはあったが、それでもただでは転んでやれない。すぐには仕留められたりするもんか。  振りかぶられる剣戟はクロードのものと比べれば緩慢に思えた。ただそれはあくまでも目が慣れたというだけに過ぎない。体は思う通りには動いてくれない。避けきれなかった一撃が頬を掠め、もう一撃、別方向から見舞われる斬撃は確実に聖奈へと浅くない裂傷を刻む――筈だった。 「させません!」  澄んだ声が後方から響いて来た。  刹那、兵士と聖奈を阻むように浮かんだのは紫色に淡く輝く光。それを目の当たりにして兵士たちの顔が青褪める。だが彼らが離れるより早く、それは炎のような姿へと変わり闇色の粒子を撒き散らしながら襲いかかった。  途端に焼け焦げるような匂いが聖奈の鼻腔をくすぐる。見れば、闇色の炎は兵士たちの剥き出しの肌や鎧の合間から覗く衣服を焦がしていた。  さらに、聖奈とルキフェルの真横を駆け抜ける人影が複数。 「うぉぉおおおおおおおっ!!」  雄叫びを上げながら闇色の炎から逃れようとする兵士へと、クロードへと突撃をしていく人影は魔族だった。  汚れきり、鎧の役目もろくに果たせぬであろうものを身に付け、古びた剣を振るう彼らの覇気に、兵士が気圧されているのが見て取れる。  だがいくら魔族といえど、なまくら同然の剣では相手の真新しい鎧を貫くことは出来ないようだった。それでも戦うことをやめない彼らに、ただただ驚き立ち尽くしていると、後方から再度澄んだ声が聞こえ、聖奈の耳を叩いた。 「〈魔王〉様! ルキちゃん!」 「アリシアちゃん……?」  ツインテールを揺らしながら駆け寄ってくるのは、アリシアだった。  その手には杖が握られており、それを見てさっきの炎は彼女の魔法だったのではないか、と聖奈の頭の中で合点がいく。 「どうして……それに、これは一体……」 「ごめんなさい!」 「え?」  疑問に答えてくれるより先に頭を下げて告げられた謝罪の言葉に、聖奈は首を傾げる。アリシアはぎゅっと杖を握る手に力を込め、 「頼るだけでは、いけなかったんです。頼り縋り、任せるだけではいけなかったんです。……何も知らないあなた様を、わたしは、わたしたちは送り出すだけではいけなかったのだと、その人間――いえ、あなた様を守るために誰よりも先に駆けたその方の姿に気付かされたから」  ちら、とアリシアが見た方向を倣うように見れば、魔族の助力もあってユーシスを押し退け、距離を取らせたウェインの姿があった。  と、視線に気付いたらしいウェインが更に追撃を掛けて追い返そうとする魔族を見送ってこちらに駆け寄って来る。 「助かった、魔族のお嬢さん」 「いえ。……あなたも、わたしたちにとって恩人ですから。あなたが叫ばねば、きっと取り返しのつかないことになっていました。悔やんだって悔やみきれない事になっていました。あなたがいたから、わたしたちは大切なことを聞くことができたんです」  ウェインに対してはこわばった表情で首を横に振りながらも、聖奈の顔を見上げるアリシアは優しい微笑みを浮かべていた。  だが、聞いていた? 何をだというんだろう?  理解が出来ず首を傾げると、競り合う兵士と魔族の方から声が上がった。 「くそ……っ! そこを退け! 今更抗ったところで苦しむだけだろう!」 「退かぬ! あの少女は言った、魔族を救うと……人間や神族とさえも手を取り合いたいと。年老いた我らでも殺せるであろう娘がだぞ!」 「つまりは〈魔王〉を名乗る小娘の気味の悪い空想論を信じたわけか! できるわけがないだろう、そんなことなど!」 「だろうな。我らもそう思うさ……だが退くも地獄、進むも地獄であれば、老い先短いこの命、〈魔王〉の幼い夢のような理想の為に使うのも悪くはなかろう!」 「死にぞこないの老いぼれどもが……!」  剣を激しく打ち合う戦いは続く。僅かながらも両者ともに血を流しながら、退く気配もないその光景を聖奈は見詰めることしかできなかった。  どうして? 夢以外の何物でもない理想なのに。馬鹿だと一蹴するほうが正しいはずなのに。そんな思いが浮かんでやまない。 「〈魔王〉様の夢を、理想を、わたしたちは聞いていました。聞いたからこそ、ここに居るのです」 「相も変わらず我が同胞――魔族は、馬鹿げた理想を掲げる愚か者に弱いというわけか」  アリシアの言葉に、呆れたようでいてどこか嬉しそうなルキフェルが肩をすくめる。  ルキフェルの物言いには文句のひとつでも浮かびそうなものだが、今はその発言に文句などつけられはしなかった。ただただ疑問しかなかったのだ。 「救うと言ってくれたことが、嬉しかったんです。恐れることなくこの場に来て、臆することなく〈勇者〉と向かい合ったあなたの姿が、魔族(わたし達)にはとても眩しかったんです」 「だからってこんな無茶……!」 「いいえ。例え無茶でもあなた様を、あなた様を救おうと動いた稀有な人間を見殺しにしてしまったら、それこそわたし達は後悔してしまいます」  奥から加勢に現れる魔族は絶え間なく、激しさを増して行く。その中で負傷する魔族も少なくはなかった。深い傷を負う魔族の痛々しさに聖奈は見ていられず顔を背ける。  窺うように見遣ったアリシアは、柔らかな微笑を携えたままだった。彼女はそっと、強く握り締めていた聖奈の手に触れて優しい声で言う。 「〈魔王〉さま。わたしが喚んだ、喚んでしまった、優しいひと。あなたはわたしたちに希望を見出させてくださった、弱虫なわたしの無茶に応えてくださった。勝手な都合で、こんな危機に喚んでしまったのに立ち向かおうとしてくださった……もう、縋るだけはおしまいにします。願うだけはやめにします」 「……」 「それと、理由はどうあれ遺跡にやってきただけだったはずの人間さん」  つい、とアリシアの視線がウェインに注がれた。話しかけられるとは思っていなかったのか、ウェインは丸くした目を瞬かせていた。 「あなたを捕らえた事が過ちだったとは思いません。それについて謝罪することもまた、おかしいのだとも」 「あれは間違いではなかっただろう。俺が魔族(あんたら)を恐れるように、魔族(あんたら)人間()を警戒するのもまた当然のことなのはわかるからな」 「……あなたにも、感謝をさせてください。ありがとうございます。あなたの言葉がなければ、あなたが動かなければ、きっと愚かなままだった……大切なことを、忘れたままでした」 「俺は何もしてないけどな」 「ええ。それで良いのです。今は、それだけで……わたしにもまだ、受け入れがたい事だから……」  その言葉の意味は、なんとなく理解ができた。  彼女とって人間(ウェイン)は恐ろしいもので、それでも傷付ける事も嫌うことも、少なくともウェインに対してはすべきではないと考えている。  聖奈とは全く前提が違うのに、恨む事も憎むことも報復することも当たり前の感情でありながらも、それでもそれが正しくないことであるとは理解しているからこその葛藤。  その苦しみを強いたのは聖奈だ。聖奈の子供じみた理想は、間違いなく彼女を苦しめているのに。 「ごめんなさい、〈魔王〉様。勝手なことばかり言って……けど、だからこそこれからはお守りします。あなた様の夢を叶えるお手伝いがしたいんです。お側で支えになりたいのです」  揺らぐことなく、真っ直ぐに向けられるアリシアの淡い紅の双眸から目を背けたくなった。だが、堪える。  込み上げるのは申し訳無さと、嬉しさ。  見返りなんて求めてはいなかった。ただアリシアの涙が止まればいい、思うのはそれだけで。ただ我慢がならなかっただけで。だからこそ、彼女を苦しめている事実が申し訳なかった。  けれどそれを口にするのは間違いであることは分かる。アリシアは、それでも聖奈の力になりたいと言っているのだから。嘘ではないその言葉に伝えるべきは? 答えるべきなのは? 考えるまでもない。 「……アリシアちゃん」 「はい」 「ありがとう」 「はい!」  途端に花咲くように笑った彼女につられるように笑んで、目の前で繰り広げられる戦いを見据えた。  戦況はいずれにも傾いてはおらず、拮抗。肩を並べて戦うことが出来ない悔しさに唇を噛みながら、それでも今度こそ視線を逸らすことなく見守る。 「酷いもんだな……」  ぽつりと、ウェインが零した。険しい顔で眺める彼に同意する。 「うん。こんなの、やっぱりダメだよ」  血の匂いが強くなる。それは魔族が負った傷から流れるものだけではない。人間も、神族も、誰もが大なり小なり傷を負い、けれども致命傷には至らないからこそ交戦が止まらない。  そしてそれを、いつしか〈勇者〉もまた静かに見詰めていた。 「……いくら老いてはいても魔族は魔族だ。なまくらの武器でも命を奪おうと思えば人間くらい容易いのだがな」 「ですが、それでは意味がありません。それに、いまわたしたちが望むのはあくまでも退けて生き残ること……一筋縄では落とせぬとさえ思ってもらえればいいのですが」  これは魔族にとって種族間の開戦の狼煙(のろし)などではない。〈勇者〉がどう考えるかはわからないが、それでも彼ならばと思ってしまうのは不思議な理解の感覚ゆえか。  考え込む聖奈の横で、アリシアがわたしも魔法で支援を試みようとしたその時、凛とした厳格な声が響き渡った。 「そこまでだ! 撤退する!」  声の主たるクロードは抜き身のままだった剣を鞘に収める。  拮抗から動くことのなかった戦況に、このままではただの消耗戦になると判断したのだろう。当然、兵士から不満の声が上がることはなく、行動は迅速だった。  魔族側としてもこれ以上の戦いを望む者などない。ユーシスを筆頭に、クロードを殿に退く兵士を追う者はなかった。  一気に静まり返る一帯。やがてクロードの姿が森深くに消え気配すら感じなくなると、聖奈は深く息を吐き出した。 「……このままじゃ、どうにもならないよね」  掲げた願いを嘘にはしたくない。そう思う以上は、避けられないものがあるのだろう。  傷だらけでボロボロの魔族たちが支え合いながら、遺跡へと戻っていく姿を見ながら小さく呟いたのだった。
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