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1.始まりはまだ遠く
締め切られたカーテンによって、外からの光が遮られて薄暗い部屋に忙しなく鳴り響く無機質なアラーム音。
途端にもぞもぞと動き出す布団の中から伸びた手が、枕元を彷徨う。そうして少し、音の発生源である目覚まし時計をとらえると、ばしりと叩き、手は布団の中へと引っ込んだ。
「うー……」
くぐもった唸り声。間もなく訪れた無音。
時間にして十数秒。
再度布団がもぞもぞとうごめき、頭がひょっこりと飛び出した。
それは、少女だった。ごくごく平凡な印象の、十代後半くらいの年の頃。
少女は上体を起こし、眠い目を擦る。 肩につくかといった長さをした、寝癖だらけの黒髪をそのままにベッドから立ち上がり、閉められたままだったカーテンを開けた。
途端に遮られていた朝日が差し込み、その眩しさに目を細めつつ。
「ふわぁ……はふっ」
今日もいい天気だ、なんてそんなことを考えながら、零れた欠伸をなんとか噛み殺して、彼女――南雲聖奈の一日は始まるのだ。
とはいえ、聖奈の一日は特別なことなどない平凡そのものだ。
水曜平日ともなれば学生である聖奈は当然日中、学校で過ごすことになる。この日も当然、起床をして身支度を済ませて朝食を摂り、先に出勤する父を見送ってから母が準備したお弁当と通学用の鞄を持って双子の兄と共に高校に向かう。
いつも通りのありふれたような日常だ。
だが、少しだけ違ったことといえば。
「悪い、聖奈。今日、帰りにゲーセン寄ることになった」
昼休み。四限目の終了と共に騒がしくなった聖奈の教室にやって来た少年は、顔を合わせるなり少しだけ申し訳なさそうにそう言った。
明るい茶色で染められた短髪に、聖奈と同じ瞳の色。顔立ちもどこか聖奈と似た印象のこの少年は、聖奈の双子の兄――理緒だ。
そんな兄の姿を見て、聖奈は目をしばたかせ首を傾げる。
「それくらいならメールでもよかったのに」
「お前な。忘れたのか? 今日から母さん、うちにいないだろ。父さんと一緒に金曜まで田舎の婆ちゃんのとこに行くって昨日言ってたじゃねえか」
聖奈の反応と言葉にか、呆れたように嘆息しながら理緒は言う。
忘れていた、わけではない。両親からそのことを聞いたのは昨日の夜のことなのだから。
田舎に暮らす父方の祖母が、畑作業中に倒れた。そう母が聞いたのは、昨日の夕方のことだったらしい。
本当はその時すぐにでも向かいたかったそうなのだが、父の仕事の都合も踏まえ、水曜――つまり今日の夕方には祖母の入院する病院に向かい、しばらくはあっちに泊まることになった、と。
その間、兄妹仲良くね、と。まるで小さな子供のように言い聞かせられたわけだが。
「大丈夫。理緒がいなくても家に帰れるし、一人でも平気だよ」
「ホントに? お前、泣き虫で怖がりなくせに強がりだからな……」
「いつの時の話かな、兄さん?」
だいたい、泣き虫で怖がりだったのは兄さんもじゃないか。
双子だから、とでもいえばいいのか。昔から聖奈と理緒は好きも嫌いも苦手も似ていた。今でこそ趣味嗜好に違いも少しはあるが、苦手な食べ物は相変わらずお互いに変わらないし、苦手なものも変わらない。
つまり、聖奈がそうだというのなら、それは理緒にも言えることなのである。
だからこそ聖奈は理緒を半眼で睨みつける。が、すぐに逸らされた目に、肩を竦めて息を吐き、
「大丈夫だよ、もう私もそんなに小さくないんだし。理緒は心配性が過ぎる」
「心配にもなるだろ。双子とはいえ、俺はお前の兄ちゃんなんだからな」
「あ、ちょっと! こら!」
うりうり、と理緒の大きな手が聖奈の頭を撫で付ける。
慌てて払いのけようとした時には既に手は離れていた。代わりに乱れた髪を手櫛で整えていると、くつくつと含み笑った理緒が口を開く。
「なるべく早く帰る。なんで、何かあったら連絡と、夕飯の用意をよろしく」
言うだけ言って、理緒は肩越しに手を軽く振ると教室を後にしてしまった。
まったく、小さな頃から彼は自分が兄であり、聖奈が妹なのだと言っては年下扱いするのだから。極僅かな時間だけしか変わらないというのに。……まあ、嫌だとは思わないけれど。
聖奈は廊下を行く生徒の姿たちの影に隠れては現れを繰り返す兄の背中を見送って、ふ、と息を吐いてからお弁当を食べるべく自分の席に戻った。
* * *
「魔王様。新たに誕生せし、先代の魂を継ぎし魔王様……」
――ああ、五月蝿い。そう〈彼〉は思った。
毎日飽きもせず、繰り返される詠唱。少女が必死に呼び掛ける先は、新たな〈魔王〉であるはずなのに。それなのに少女の声はいつまでも聞こえ続けているのだ。
そもそも〈彼〉は既に身体を失っていた。かつての身体はとうに朽ち果て、跡形もなく消滅している。故に、器がなくては何一つとして出来ない状態。それなのに。
「魔王様。我らが主様、お応えください。この地に降り立ち、我らを何卒お導きください」
少女の声が響く。柔らかく、透き通った声音。いつにも増して切々とした声には、僅かに焦燥の色が帯びていた。
その声に、応えてやりたいと思わないわけではない。
彼女は同胞。大切な、守り慈しむべき子の一人。
しかし同時に、思うこともある。――もう、己に課せられた救いの役目はとうに終わったではないか、と。
「…………」
少女の詠唱が止む。
今日もまた、新たな〈魔王〉が応えることはなかったようだ。
「……わたしたちは、終わるべき種なのでしょうか?」
そんなことはあるはずもない! そう〈彼〉は叫んだ。
しかし、それが悲しげな声で呟いた少女に届くことはない。残滓である今の〈彼〉には、声を届けることすら叶わないのだ。
今はまだ意識はあれど、いずれは消えるのが定め。けど、だけど。何一つままならない現状に、苦虫を噛み潰した。
全く、我が継承者は何をしているのか! 〈彼〉は強い憤りを感じていた。
応えてやって欲しい。力になって欲しい。もう役目を終えて溶ける時を待つ、自分の代わりに。世界と慈しむべき命に危機が訪れているのならば、尚更。
その為に、自分は何が出来る? ――決まっている!
『同胞の娘よ、我が代わりに導こう。目覚めもせず、切なる声を聞き取れもせぬ、我の力を継承する愚鈍な者を。力を使えぬ器でも、それくらいなら可能のはずだ――!』
誰にも届かぬ声なれど、〈彼〉は高らかに宣誓をする。
役目を終えて永久の眠りについていた消えるはずだった〈先代魔王〉の魂は、人知れず胎動し強く煌めいていた。
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