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4.彼の地は魔の隠れ里
小高い丘の上。
眼下にのぞむ遺跡と、それを取り囲む鎧を着込んだ集団を眺める人影がそこにはあった。
「……気配が、増えた」
外套を纏い、深くかぶるフードの奥に見えるのはせいぜい口元程度。形の良い唇が動き、紡がれた声からそれは男だとはわかるが、表情さえまともに窺えない。
だが彼は、ただただその光景を眺めていた。
「ついに〈魔王〉が応じたのか……だが増えた気配は二つ、どういうことだ?」
僅かに声音には怪訝そうな色を宿して。
彼はしばらく無言のまま遺跡を見詰めていたが、不意に地面を蹴る。
「確かめる必要がある、か」
言いながらふわりと飛び降りていくその人影に、気づく者はひとりだって存在しなかった。
* * *
蝋燭の薄明かりで照らされる静かな部屋の中、呆然と座り込む目の前で泣きじゃくる少女。
溢れた涙は止まる気配がなく、それでも静かに泣き続ける彼女を前に聖奈が戸惑っていると、間近にぼすっと何かが落下した。
見遣るとそれはぬいぐるみだった。見覚えのある猫のぬいぐるみ。ついさっきまで喋っていた、あいつだ。
顔面から落ちたのか、うつ伏せた体勢のまま一秒。心配になり、手を伸ばそうとしたところで尻尾がはた、と揺れ、小さな羽が動き、わなわなと震えながら飛び起きた。
どうやらこのぬいぐるみは相も変わらず動くらしい。
「ぬぅ……! やはりこの姿では魔法のコントロールは厳しいか……! ええいっ、セナ! 何故我を抱えずに一人で落ちた!?」
しかもしゃべる。さも当たり前のように。
いっそ夢だったら良かったのに、と思うより先に怒鳴り声の内容に納得がいかず、聖奈は叫んだ。
「貴方がいきなり背中から変な魔法陣に突き飛ばしたんでしょう!? 抱えるとか、そんな余裕はありませんでしたー!」
「口答えをするか、小娘が! そもそもだな、貴様が愚鈍ではなければ我が苦労することも……、む?」
不意にぬいぐるみ――ルキフェルの視線が聖奈から逸れた。代わりに向けられた先には、少女がいる。
あれだけ泣いていたのに、なにがどうしたのかはわからないが気付けばすっかり涙が止まった瞳を丸くして、一点を見詰めていた。
その視線の先にあるルキフェルは再度聖奈を見ると、ぎっと睨んでくる。
「小娘。何故、我が同胞が泣いている? まさかとは思うが、貴様が泣かせたのではあるまいな!?」
「なんで貴方がそんなに怒ってるの!? それに、よくわからないけど多分感極まって、」
「言い訳をするでないわ!! 貴様には我が直々に説教をしてやろう! そこに直れ!!」
「私の話も聞いてくれませんか!?」
眼前にまで迫り怒号を飛ばしてくるぬいぐるみを、聖奈は真正面から非難した。そのうちあまりにも理不尽で、納得がいかないからだ。
頭ごなしに叱られて、誰が屈するものか。しかもこっちの言うことなど聞きやしない。
ふつふつと沸き上がる怒りに任せ、ルキフェルの顔面をずんむと掴んだ直後、
「……ってます……」
「え?」
小さな声音に、聖奈は首を傾げる。
声の主は少女だ。睫毛を濡らし、目尻にに涙を溜めたまま、ルキフェルを真っ直ぐに見詰めていた。
もがもがと叫びながら暴れるルキフェルを掴んだまま、続く言葉を待っていると、少女は瞬きを忘れたままルキフェルを凝視する。
「ぬいぐるみが、しゃべってます……」
それは、いたってまともな発言だった。
だが立て続けに非常識な事態に見回れていたせいか、一瞬言葉の意味を理解しかねて聖奈はぽかん、と半口を開けたまま、彼女を見つめ返してしまった。
少女の目が、驚きから興味と好奇心へと色を変える。その事に気付いてようやく、聖奈は我に返ることが出来た。
「あのっ、その子は〈魔王〉様のぬいぐるみなんですか……?」
「えっ、あ、……一応?」
「そうですか! その……、触らせてもらっても構いませんか?」
「うん? う、うん、……構わないよ?」
キラキラと黒目がちの大きな目を輝かせる少女の純粋な言動に、聖奈は〈魔王〉と呼ばれようが、現状を把握できていないままであろうが意を唱えることはできなかった。
だって泣いていた美少女が理由はともあれ泣き止んでくれたのだから。今はそれで良いと思う。
無造作に掴んだままのルキフェルを差し出すと少女は両手で受けとって、真正面からルキフェルを見詰めて笑った。
「……かわいいですっ」
この上ないくらいに綺麗で、愛らしい笑顔である。
どこか幼さも残る少女だ。外見相応に可愛らしいものが好きなのだろう。ならばかわいい猫のぬいぐるみという姿をもったルキフェルに反応しない筈もない。
とはいえ見た目はかわいいながらも中身は尊大そのものなそのぬいぐるみはといえば、先程までの暴れ方はどこへやら、とてもおとなしかった。
美少女の笑顔には弱いのか。それとも無邪気な自反応には形無しか。いずれにせよ少し憮然としたが、あまり気にしないことにした。
「猫のぬいぐるみさん……!」
「いや、我は……うむ……」
「わたし、動くぬいぐるみさんを見たのははじめてです! 〈魔王〉様の使い魔さんなんですか? お名前はなんというんでしょう?」
「む……、わ、我は此奴の使い魔というわけでは……まあいい、我の名はルキフェルだ」
「まあ! 先代様と同じお名前ですね! すごく素敵です! でもその名で呼ぶことはわたしたちには大変畏れ多いこと……そうですね、ルキちゃんと呼んでも構いませんか?」
「る、ルキちゃん!?」
矢継ぎ早に紡がれる言葉。ルキフェルは律儀に返答をしていたが、最終的には固まった。
おそらく自称先代魔王にとって、自分の名を略されるだなど思いもよらず、しかもその呼び方がとても愛らしいものになるなど、想像を絶する程度には衝撃だったのだろう。聖奈にはわからないが、たぶん、そうなのだろう。
そんなショックで動けなくなったらしいルキフェルに少女は小さく首を傾げ、聖奈に不安げな視線を寄越した。
「あ、あの……わたし、なにか変なことを……?」
「いや、うーん、気にしなくて大丈夫じゃないかな? 多分、衝撃を受けただけだろうし」
「衝撃、ですか……?」
さっぱりわからない、という様子でさらに首を傾げる少女に聖奈は曖昧に微笑んだ。この子のせいじゃないからね、うん。
「それよりも、聞きたいことがあるんだ。此処は何処、なのかな? それに、貴女は?」
そもそもとして此処に来たのはルキフェルに突き落とされたとは言え彼女に呼びかけられていたからであり、助けを求められていたからだ。
ならば事情は聞くべきだろうとおずおずと尋ねると、少女はハッとした様子で目を丸くし、聖奈に向き直った。もちろん腕の中にはルキフェルを抱えたまま、であるが。
「し、失礼しました! わたしったら名乗りもせずに……わたしはアリシア、アリシア=ルーベルといいます」
「ルーベル……? もしや、巫女の一族の娘か?」
深々と頭を下げる少女――アリシアの腕の中で、平静を取り戻したらしいルキフェルが抜け出しながら呟く。聖奈は頭を下げるアリシアに、頭を上げてと慌てて告げながらルキフェルを見上げた。
「巫女の一族?」
「うむ。ルーベル家は代々、魔王に仕える一族の一つ。女系一族であることや決まって強大な魔力を持って生まれ、それによる口寄せが得意であることから巫女の一族と呼ばれているのだ。そうか、召喚の儀式を行っていたのがルーベルの娘というのなら納得だ」
「といっても、わたしは一族でも落ちこぼれで……お母様たちと比べても魔力もそんなにないし、治癒の魔法以外は不得意なんですけど……」
顔を上げたアリシアは居心地悪そうに目を伏せ、それからすぐに微笑む。
魔力だとか口寄せだとか、魔法だとか、いよいよ本格的に非現実的な話になってきていて、聖奈には全く理解できない。慰めるなんてもってのほかだ。なにも出来ない。唯一出来ることといえば話をすることくらいだ。
「じゃ、じゃあ……此処は?」
再度尋ねると、アリシアより先に何故だかルキフェルが口を開いた。
「ふむ、それは我も気になるところだ。城ではないな? このような簡易的かつ、急拵えの陣は城では見たことがない」
「はい、確かにここは城ではありません。……ルキちゃんはとても詳しいんですね? 〈魔王〉がお教えに?」
腕の中に抱えるルキフェルに対して感心したような笑みを浮かべたアリシアが、期待を込めたような眼差しを聖奈に向けるが、残念ながら聖奈はただの人間で女子高生である。
期待を裏切るのは心苦しいが、事実は事実としてしっかりと伝えるべきだろう。
「いや、私は全く知らないから……。それに、言いにくいんだけど、私はたぶん〈魔王〉なんかじゃないと思うの。普通の人間だよ?」
「――え?」
きょとん、とした表情でアリシアは首を傾げた。特におかしなことを言った覚えはないのだが。
アリシアはしばらく目をしばたかせていたが、みるみるうちにその顔には困惑の色を帯びさせる。
「えっ? そんな、だってわたし、〈魔王〉様を……! 先代様の魂を継ぐ、わたしたちを導いてくださる方を、喚んで……、だから、でも、えっ?」
「ルーベルの娘よ、落ち着くが良い。この愚かな小娘は自覚が足らんだけで、紛れもなく次代の〈魔王〉だ。儀式に失敗してなどおらん」
あわあわと慌て始めたアリシアを宥めるようにルキフェルが告げる言葉には異議しかない。聖奈は眉をつり上げて声を張り上げた。
「ちょっと、おかしなこと言わないでよ! 私は人間で、〈魔王〉なんかじゃないの! 勝手に決めつけないで!」
「決めつけてなどない。遺憾ではあるがな、セナ――貴様は次なる〈魔王〉なのだ」
しかしながらアリシアの腕からするりと抜け出し真っ直ぐにこちらを見据え、ルキフェルは言う。
背の羽を忙しなく羽ばたかせて腕を組むぬいぐるみは、愛らしい姿とは不似合いなまでの迫力と威圧感を纏っていて、聖奈は思わず口を閉ざす。
しかし納得はいかない。これまで普通に暮らしてきて、優しい父と母、それに双子の兄がいて。それなのに、そんなただの平凡な学生である自分が〈魔王〉? なんでそんな馬鹿げたことになるのか。冗談でも笑えない。
口は閉じれども睨んだままでいると、ルキフェルは何かを察したかのような溜息を零した。ほんの少しだけ表情をなんともいえないものに変えながら、彼はまたアリシアに振り返る。
「この小娘については今は後回しで構わん」
「ちょっと!」
「それで、此処は何処だ?」
「……その、言ってしまえば隠れ里なんです」
「隠れ里?」
「はい……」
頷いたアリシアの表情は、暗く沈んでいた。
その先を言いにくそうに言葉を切って視線をさ迷わせていたアリシアだったが、やがて決心した様子で聖奈とルキフェルを真っ直ぐに見据えて言う。
「此処は、隠れ里。首都フェノワールより遠く大陸の最端に拡がる〈魔の森〉の中に残された、名の忘れられた遺跡の中です」
「どういうことだ? なぜ、こんな場所で儀式を行う必要が……? いや、まさか」
「はい、――人間と神族のせいです」
淡い赤の双眸が揺れる。それまでは堪えられていたが、言葉を紡いだことで涙が溢れて零れた。
「ある時、突如として彼らが、わたしたち魔族の国に大軍で攻め込んできたのです……! それによりほぼ全ての領土が奪われました……!」
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