雪の話

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雪が降っている。時間が止まっているように、ゆっくりと。 一粒一粒が役目を終えたように地面の白に眠って、その白の一部になっていく。そんな光景を、峠の上の道路脇でぼうっと見ていた。 深夜二時半、この場所はしんと冷えて息が絶えそうなくらいに寒い。自販機で買った缶コーヒーを啜ると、その熱さがいくらか身体に移る。苦味が身体と意識に生気を渡す。静けさの中に、目を瞑る。この場所に音は無い。 ほうっと小さく息を吐くと、白く曇って雪の中へと消えていった。 「またコーヒー。カフェインばっかり摂ってると身体に悪いよ?」 白いセミロングの少女が、瞼の裏で、脳の縁で呟いた。あぁ、あいつはそう言ってくれるだろう。もう、どこにもいないけど。あいつがいなくなったのも、こんな止まって見える雪の日だったっけか。 ふっと現れて、どこへともなく消えていった少女は弟の娘だった。甲斐性無しの屑の父親に酷い虐待を受けていて、終わりには一月のベランダで冷たくなっていた。あいつが俺に会いに来たのは亡くなる一ヶ月前のことだった。 「叔父さんがいる、ってお父さんから聞いてはいたんだけどどんな人か見たことなかったから」 そんなことを言いながら、俺のアパートを尋ねてきたあいつはどっさりと両肩に白い塊を載せて笑っていた。 俺は独り身だし、家で仕事してる物書きの身にとっちゃ特にこれといって邪魔にならない奴だったから三週間ばかり家に置いていた。 あいつはよく家事をしてくれた。山積みの洗濯物も、汚れたままシンクに眠る食器も、あいつの手ですっかり消えていた。特にコーヒーカップの茶渋を落としてくれたのには感謝している。ちゃんと白いカップで飲むだけでコーヒーが随分美味く感じたものだ。 そして、家事を一通り終えるとリビングの適当なところに布団を敷いて寝ていた。特に仕事が無い時などはこっそり寝顔を見に行って、年相応の純粋さを眺めたりしていた。 今思えば、十四歳の少女が、騒がしいと相場が決まっているあの年頃の女子が、あんなに差し障りなく家に居座っていた方がおかしい気がしてくる。あいつなりに、父親に殴られないように身に付けた狂気的な気遣いの一部だったのかもしれない。 ──俺が頑張れば、ちゃんとあの時気付けただろうか。そう思うと、心が冷える。 あいつにせがまれて、一度だけ外出した時があった。名前は忘れたけどどこぞの天満宮だか神社だかに行きたいと言ったので、仕事の休憩がてら連れてった。 あいつは、本尊に静かに礼をすると、綺麗な白髪を風に揺らして、売店へ歩く。その後ろ姿を目で追うと、なんだか救われている気がした。 鈴付きの大層な「健康祈願」のお守りを二つ買って、俺のとこにとことこ歩いてきて、その一つを俺に差し出した。 「叔父さんが、カフェインいくら摂っても健康で、素敵な小説書けるように!」 そう言ってはにかんだ顔が眩しくて、俺の、売れない物書きの稚拙な語彙で語るなら、雪明かりみたいな笑顔だった。あの顔に、また会いたくなる。 そういえば、あのもう一つのお守りはやっぱり父親に買ったものだったのだろうか。最後まで行方は聞けなかった。大方、焼かれたか捨てられたかしてるだろうな。昔から罰当たりな奴だった。もったないことしやがって。 あの日々を思い返すと、なんだか泣きそうだった。峠はさらに寒さを増して、思わずあいつの、あの子の前では吸わなかった煙草に火を付ける。ごめんな、叔父さんはカフェイン中毒かつヤニカスなんだ。 あの子が怒った気がした。申し訳なくなって、変な笑いを浮かべながら、煙草を一吸いしたところで、ふと思い出す。 「あぁ、あの子の名前、雪か」 葬式に殴り込んで、あの愚弟をぶん殴った時に切った手の傷が痛みながらシンと冷えてズキズキと痛んだ。へへ、ざまあみろ。あのクソ野郎がムショにぶち込まれる前に、俺は俺のできることをした。 「なぁ、俺は健康でやるよ」 空にに向けて、雪に向けてそんなことを言ってみると、喪服の黒には、雪が積もる。白く白く。車に戻ろうと道路へ引き返すと、鈴がちりんと、ポケットの中で小さく鳴って、静けさに一滴の音が落ちた。 ──あいつ、最期はどんなこと思ってたんだろうな。 これは雪の話。止まった時間の中で、ゆっくりと眠る雪の話。
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