プールの底から水面を見てみた

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穏やかな土曜の午前中だ。 庭に踊る陽射しもすっかり春のものだ。 先週でサクラの時期も終わったらしい。 今は木々の若葉が一斉に吹き出して、何処を見ても春が踊っている。 春は再生の季節だ。 何もかもが、暗い冬から甦る。 私もそうしなきゃならない。 膝が痛いとか言ってられない。 5年前に亡くなった夫に笑われてしまう。 だいたい82歳の今日まで、大病をせずに過ごせたんだから、生来、丈夫なんだろう。 毎日午前中に亡き夫の墓まで、30分かけて歩く。 本村タミ子の一日はこうして始まる。 別に、信心深いわけでも、夫を格別慕っていたわけでもない。 ただ、何となく日課になってしまった。 農機メーカーの工場に勤めながら兼業農家をしていた2歳上の夫は、ある朝、朝食の後、くも膜下出血で呆気なくこの世を去ってしまった。 以来、散歩が日課になった。 途中でモップみたいな飼い犬をからかったり、小さな寂れた神社に、今日の無事を祈ったり、寄り道するとこはけっこうあるから忙しい。 今朝も、5月になると野イチゴが沢山生る奥田さんの畑の横を通り、墓まで行って来た。 今日は供え物の花を変えたので、右手に枯れた花が握られている。 近くのスーパーもまだ開店前で、店の前のゴミ箱に枯れた花を捨てようと思っていたが、店の前のタコ焼き屋台のオヤジが見ていたので止めた。 店の入り口横に置かれたベンチに腰掛ける。 こんなのが凄く助かる歳になった。 11時の開店まで、あと5分くらいだ。 福島の2歳下の弟からリンゴが送られて来たが、悲しいかな、一度に半分位しか食べれないので、なかなか減らない。 今日も昨日の残りの半分を食べねば。 昔は中華だって、2人分くらいペロリだったし、コーヒーもミルから用意していたものだが、いつの間にか少食になったし、コーヒーとか面倒になってしまった。 末は博士か大臣か等と言うが、最近、偉くならずとも、犯罪者にならなければ、それでいいのではないかと思うようになった。 実家の跡取りは末の弟の忠光だが、これが何をしてもパッとしない男で、最終的に30を過ぎてから左官になった。 こいつが時間や約束事にルーズな男で、随分と迷惑をかけられたものだが、小さい頃は5歳違いの母親代わりの私に、遠足の土産として鈴虫を捕って来るような気の優しい男だったのだが、この男が犯罪者にはならなかった。 この弟など、死んでも、思い出以外は生きた痕跡すら残らないだろうが、其れでいいのではなかろうか。 誰もがひとかどの人物を目指したら、この世は息苦しくなってしまうと思うのだ。 主役が居るように脇役に終始する人生もアリだろう。 頻繁に来ていた同級生も、みんな今では病院で集会をしているようだ。 近くの渡辺さんの婆ちゃんが、着なくなった夏服を持って来ると言ってたっけ。 あの人、自分の方が歳下のつもりだけど、実際には向こうが2つ上なんだよな。 あ、そうだ!お茶請けに杏仁豆腐を買っておこう。 確か渡辺さんの好物だ。 同居してる孫がテレビを点けていても、内容についていけないから、自室で足を投げ出して、アメ玉を嘗めてるそうだ。 婆ちゃんの話など、誰も聞かないのだろう。 決して面白いものではないが、孤独は精神的な健全さを蝕んでしまう。 杏仁豆腐があればきっと昔話に花が咲くことだろう。 いつも同じ話の繰り返しだが。 と、スーパーの開店時間だ。 中に入ろう。 その時、強い閃光が光った。
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