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第二章6
「蓮!」
景之亮は階の一番上に腰かけて、じっと庭を見つめている妻の後ろ姿に声を掛けた。
蓮はゆっくりと首だけで振り向いた。
「どうしたんだい……五条のお邸に寄ったんだよ。そうしたら、蓮はもう帰ったと言われて……体の具合でも悪いのか?」
大股で飛ぶように歩いて、景之亮は蓮の隣に腰を下ろした。
朝、景之亮が宮廷に出仕するとき、今日五条の邸に行くと蓮が言ったので、帰りに迎えに寄ると話をしていたのだ。
「ん?」
黙ったままの蓮の顔を景之亮は覗き込んだ。
「……景之亮様……私、早く景之亮様の子を産みたいの。ここに来てもう三年になろうとしている。……どうして、私のところにややは来てくれないのかしら」
そう言って、小刻みに震える唇をかみしめた。泣き出しそうになるのを堪えているのだ。
「……蓮……」
景之亮は蓮の背中に手を回し、腰を抱いた。
蓮は、昼間、五条の離れで見た光景が羨ましかった。ほぼ同時に蓮と入れ替わるように芹があの離れに入り、蓮はこの鷹取の邸に来た。芹はすぐに懐妊し、淳奈という子が生まれたように、蓮にも子がいておかしくない。なのに、一年待ち、二年待ちしても、一向に身籠る兆しはない。
誰に抱かれても機嫌よくにこにことしていた淳奈は成長するにつれ、今ではなんでも母ではないと嫌になった。見てほしい、世話をしてほしい。なんでも、母にして欲しい、と言って泣きわめく。
そんな淳奈を芹は何をおいても相手をしてやるのだ。
そんな小さな存在が自分にもいたらどんなにいいだろう。どんな世話も焼いてあげるのに。
蓮はそんな愛おしい小さな存在を、表に出さないようにしているだけで、本心は渇望している。
「蓮……」
涙が溢れるのを我慢している蓮を景之亮は、抱き寄せた。
「私たちは仲が良すぎる」
景之亮が大きな声で言い切った。
「蓮もそう思うだろう、ね。丸や曜も私たちの仲の良さが昔から少しも変わらない。そればかりか年々増しているようだ、とつい最近も言っていたじゃないか。だから、子供さえも私たちの間に入り込む余地がないかもしれないね。……だけど、私たちの子供のために、少し自重しないといけないかね……」
「自重って……仲良くしないとややは私たちの元には来てくれないわ」
「あははっ!そうだな。じゃあ、今まで通りだ。……蓮、焦ることはない。待とう。私は待てるよ。確かに、実津瀬殿たちのところには淳奈がいて楽しそうであるが、私たちは私たち。まだ二人で楽しく暮らすんだ。ややがいたら、蓮はややにかかりっきりになるだろう。そうなったら、私は寂しいかもしれない」
蓮の顔を覗き込んで、景之亮が話す。
いつか二人の間にできるややに今から嫉妬するというのだ。
蓮は涙が引っ込んで、笑ってしまった。
景之亮は何と言って自分を慰めたらいいのか、悩んでいるのだろう。その中で、ややにかかりっきりだと自分は寂しなんてことを言う。まだ二人でいい、もう少し待とうと言う。
蓮はその言葉に、気を取り直して、景之亮の胸に寄りかかった。
「そうね。私も景之亮様と二人は楽しいのよ」
その夜、油が切れる前の小さな明かりの中で、蓮は上着を脱いだ。
先に褥の上に横になっていた景之亮が体を起こす。蓮は褥の上に上がって、景之亮と向かい合って座った。
蓮は細い帯を解いて、肌着を脱いだ。差し出した景之亮の手につかまって、景之亮の腰の上に跨がり、景之亮の頭を自分の胸に抱いた。
景之亮は柔らかい蓮の肌に自分を預けて、目をつむった。
「……ややができても、私は景之亮様をおざなりになんてしないわ……。大好きな旦那様だもの。ややと景之亮様と両方のお世話をするわ。誰にも任せたくない。私がしたいの」
景之亮は目を開けて、顔を上げた。燃え尽きそうな小さな明かりの中で、蓮の顔を見る。
消えてなくなることを抗うように二度大きくその赤い体を揺らして、灯台の炎は消えた。
蓮の表情は真っ暗闇の中で見られなくなった。
「蓮……」
景之亮が囁く。
「ここにいるわ、景之亮様……あなたの前に」
蓮が小声で答えた。
そんなことはわかっているよ、と景之亮は思った。
その体を今、この腕で抱いているのだから。
景之亮は蓮の腰から背中に回した腕を引いて、蓮の体を抱き寄せた。再び、蓮の胸へと頬をつけた。強く抱きついたため、蓮は少し背を反らせてその重みを受け止めて、景之亮の首に掴まった。
蓮が甘えているようで、実はその反対だ。景之亮が黙って、蓮に抱かれて甘える。
毎夜、景之亮は気兼ねなく甘えるのだ。それは、一人寝では決して味わえない、心の安らぎと明日への活力の補充のひとときである。
臣下一の一族である岩城の娘を妻にした身分に差のあるその結婚は、後ろに見える権力にひれ伏し、気を使って生活していると陰では言われているが真実は別である。景之亮はこうして蓮に愛されている。
二年経っても景之亮の気持ちは、そして蓮の気持ちも冷めることなく、二人は暮らしている。
何も不足はない。ただ、強いて言えば、子が欲しい。
景之亮もそうは思うが、蓮の方がその気持ちは強い。
明るい蓮が唯一、表情を曇らせ、今日のように時折静かに泣くのだ。
子がいれば、それはそれでより賑やかで、楽しいことがあるだろうが、それが全てではない。景之亮はそう思って、待っている。蓮に話したように、景之亮は待つのだ。
蓮のふくよかな白い体に抱かれていた景之亮が、次の行為へと移った。蓮と繋がり、愛す。二人の動きで蓮の頭上に一つにまとめた長い髪が一筋、一筋と落ちて景之亮の顔や肩にかかる。
「ん……あ……」
「はあ……」
蓮の艶めかしい吐息に景之亮の溜息。
二人は二年同じ屋根の下で暮らしているが、愛の行為に慣れるも飽きたもなかった。
だからこそ、なぜ、子ができないのか、不思議でしょうがない。
蓮と景之亮の仲は誰にも裂くことはできない。二人は信頼し合い、愛し合っている。
しかし、その仲を壊しかねない、蓮を悩ませる人が一人いた。
それは、景之亮を支えてくれた叔父の宇筑である。
叔父がそんなことを言っているとは全く知らなかった。景之亮が蓮と宇筑を必要以上に会わせることがなかったし、昼間は実家の五条の邸に行っていることもあり、宇筑と会うことはなかった。
その日も、五条の邸に行く予定であったが、昨日、従者の多(た)良目(らめ)が馬に蹴られそうになって尻もちをついた時に、腕をついて痛めたため手当をしていたら、予定していた写本が進まず、五条に行くのはやめて、景之亮の出仕を見送ってから、朝餉もそこそこに机の前について写本をしていた。
「おい、おい!丸!」
庭で丸を呼ぶ男の声が聞こえた。
蓮は写本に集中していて、すぐには気づかなかった。
「どうなさいました、宇筑様」
邸の奥で家事をしていた丸が庭まで出てきた。初め誰の声かわからなかったが、丸の言葉で叔父の宇筑だとわかった。
蓮は開けた蔀戸から首を伸ばしたが二人の姿は見えなかった。
「旦那様はいらっしゃいませんよ」
「そんなことはわかっている。どうだ?景之亮には言ったか?」
「いいえ。言っていません」
「なぜだ?言うだけ言ってみろ」
丸と宇筑が何やら言い合っている。
蓮は筆を止めて、二人の会話に聞き耳を立てた。
「なぜそんなことを言わないといけないのですか!あんなに仲の良いお二人に、必要のないお話ですよ」
「何もわしは二人の仲を壊そうと思っているのではない」
景之亮、二人という言葉から。景之亮と自分に対して何かを言う言わないという話をしているのだ。
何かしら?
蓮は机に身を乗り出した。
「しかし、もうあの娘が来てから二年が経とうとしている。子供ができてもいいではないか。それができないというなら、景之亮には別の女人の元へ通い、子をなせばよい。女人と知り合う機会がないというのであれば、わしが知り合いの娘の橋渡しをしてやるから心配することはない。だから、景之亮に一度聞いてみてくれ」
「いいえ。旦那様はそのようなお考えはないはずです。それはそれは蓮様を大事になさっていらっしゃるのですから」
「丸、お前は話の分からないやつだな。わしは二人の仲を壊す気はさらさらない。大ぴらに他の女のところに通えとは言っていない。黙って通えばよいだけだ」
宇筑は二年経っても蓮に子ができないことにしびれを切らしているようだ。蓮に子ができないなら、他の女の元に通うことを、丸から景之亮に言えと言っているのだ。
蓮は、膝の上に両手を置いて、唇を噛んだ。
宇筑が気にしていることは、蓮が一番よくわかっている。
でも、自分ではどうしようもできない。
だから、悩み、もどかしくて涙がこぼれてくるのである。
もし、このまま子を授かることができなかったら、どうなるだろう。
景之亮は待っていればいずれ授かると言ってくれているが、それは半分そう信じているから言った言葉だろうが、半分は蓮を慰めるために言ったことだ。
待っていれば必ず子を授かるなんて確証はない。でも、授からないと決まったわけでもない。
蓮は宇筑の言葉を飲み込んだ。
今の宇筑と丸の会話では、まだ景之亮とは話していないようだ。
これから宇筑の思いを景之亮が聞いた時、景之亮はどう考えて、どう答えるだろうか。
他の女人の元に通って、子供を作れという叔父の言葉に、景之亮が諾というはずはない。
もう少し、もう少し時間が経てば、明るい兆しが見えてくるかもしれない。
そうなれば宇筑にこんなことを言わせない。
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