第四章17

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第四章17

 朱鷺世が一人で舞う時にどのような舞をしようか、と悩むように、実津瀬にとってもそれは懊悩であった。  今の自分の舞は、朱鷺世に負けているとは思っていない……。  しかし。  と思うのだった。傲慢な思い上がりの上にあぐらをかいていたら、その優位はいつ逆転するかわからない。  そんな恐怖を感じさせるのだった。あの、朱鷺世という男は。  だから、いい加減な気持ちでこれまでの真似事をなぞっていては、勝負に勝てるかわからない。  実津瀬は、仕事が終わると稽古場に行って、朱鷺世と二人で型を合せた。演奏が速くても遅くても二人は音を聞いて、互いの動きを合わせて舞った。それが終わると、実津瀬はさっさと邸に帰って行った。  邸に戻ると、淳奈の昼寝に添い寝をしていた芹も一緒に寝てしまったと、侍女の編が言った。  実津瀬は庭に出て、昔、宮廷の宴で淡路と一緒に舞った時の舞の型をなぞった後、目を瞑った。今度の月の宴で同じような舞をしても、代わり映えのしない舞に見えてしまうだろう。そんなことない、という者もいるだろうが、少なくとも御一人は言うはずだ。その人を納得させなければ、対決に勝つことはできない。  舞を存分にやり切る後押してくれた人ではあるが、考えていることは無茶なことばかりだ。  実津瀬は、朱鷺世とは違う舞とはどんなものか、と考えた。  右手と左足を上げる。上げた手を水平に動かして、左足を前に一歩出す、とこれまでの型の幾通りかを思うままにやっていると、軽い足取りが簀子縁をこちらに近づいて来る。 「父さま!」  庭に立っている父を見つけた淳奈が呼びかけて走って来た。 「淳奈」  階を飛び降りて、裸足のまま広げた実津瀬の腕の中に飛び込んできた。  淳奈の後ろを追って来た芹は、階を下りると用意していた沓を履いて、実津瀬のところまで来た。 「お帰りになっていたのね」 「少し前にね」  淳奈を抱いた実津瀬は立ち上がって答えた。 「舞の練習ですか?」 「うん……。月の宴で舞うことが決まった」 「やはりそうなのですね!淳奈が生まれる前に皆で観に行った時のことが思い出されます。淳奈も大人しくできれば連れて行って、見せてやりたいわ」 「そうだな。淳奈、いい子で見ていられるかな」  淳奈は何のことを言われているのか、わかっていないが、うんうんと首を縦に振った。 「舞!舞、やりたい」  淳奈の言葉に、実津瀬は淳奈を下におろした。 「淳奈、こうだよ」  実津瀬は何回となく舞って来た型を淳奈に見せた。淳奈は見たままを再現しようとしたが、まだ三歳では、体がついて行かず、ところどころ端折られているところがある。それでも一生懸命な姿が愛おしくて、実津瀬と芹からは思わず笑みがこぼれた。 「できない!」  父がやっていることと同じにできていないと思った淳奈は癇癪を起して、叫び、母の胸に走って行った。 「淳奈、できているよ。うまく舞っているよ」  母に抱き上げられた淳奈に、実津瀬は話し掛けた。 「ううん!」  納得できない淳奈は、首を横に振った。 「どうして?私と同じように舞えていたよ」  父に言われても、できないと唸る淳奈を芹は地面におろした。 「淳奈、ほらほら!手を上げてごらんなさい」  そう言って、芹は繋いでいる淳奈の右手を上げた。 「次は左足を上げて!とんっと下ろす!」  芹の言うように淳奈はやってみる。 「上手よ!次はこっちの手」  握った左手を横に広げる。  芹は次々に淳奈の手を一緒に動かして、足を上げる合図を言う。  一見、実津瀬が舞って見せた型をやっているようで、芹が得意とする自由な踊りが加わっていく。手も足も好きなように動かして、右に左にと淳奈の体を揺らす。 「きゃああ、あはは」  淳奈は面白くなって笑い声を上げて、母と一緒に自由に手を振って踊った。 「父さま!」  二人が好きに踊っている姿を階に寄りかかって見ていた実津瀬を淳奈が呼んだ。実津瀬は二人に近づいて、握っていた手を離した二人の間に入って手を繋いだ。  芹が右手を上げて下ろすと繋いだ淳奈の左手が上がって下りた。それを真似して、淳奈が右手を上げて下ろし、実津瀬の左手が上がって下りた。芹のする動きを一人ずつ真似て動き、その途中で、実津瀬が違う動きをしたので、淳奈が大きな声で笑う。芹も、予定通りにいかない動きに、ついて行けなくて笑い声を上げた。  笑顔の二人を見て、実津瀬も笑い顔になった。  いつものことだが、芹の自由な踊りが実津瀬の悩みを解(ほど)けさせてくれる。 舞に型は大事だ。宮廷で長い年月を通して作られて来た舞の型は美しく、同じことでも何度でも舞いたくなる。  しかし、型に拘らなくてもいいと思わせてくれるのが芹だ。堅苦しくない、自由に、好きなように、気持ちと体が動くままに。  伝統の中でその限界に拘ることも必要だが、実津瀬は芹の自由さに救われるのだった。  夜、実津瀬は灯りの下で座って考えごとをしていると、芹がひっそりと寝室へと入って来た。 「あら、まだ横になっていなかったの」  芹は褥の上に上がって、実津瀬の前に座った。 「芹を待っていた」  実津瀬は言って、芹が自分の膝の上に重ねて置いた上の手を握った。 「お顔はとても厳しいわ。舞のことを考えていたの?」 「うん……」 「……淳奈は、あなたのようになるわね」 「私のように?」 「きっと、舞を極めたいと言うようになる。寝る直前まで昼間のあなたの舞の真似をしていたわ。あなたのようにできないことが悔しいみたいなのよ」 「今からそんな気持ちがあるなら、淳奈はきっと私よりも立派な舞手になるような気がするな」  実津瀬は息子の将来を予想した。  芹の言葉に返事しながらも、実津瀬は芹の手を持ち上げてその手の甲に口づけた。 「私は良い舞手になれるだろうか?なれると思った自分がおこがましいと思えてきた」 「何を言うの?あなたはもう立派な舞手です」 「……そんなことを言ってくれるのは、芹だけかもしれない」  芹は握られた手を握り返して言った。 「私と淳奈はあなたの舞が素晴らしいこと知っています。だから、淳奈はあなたを真似したがるの。それだけ、魅了されているのです」  月の宴までまだ三か月あると言っても、日々の仕事や生活をしていればあっという間にその時が来てしまう。実津瀬は焦燥を感じていた。 「大丈夫。心配しなくてもあなたにしか舞えないものができますから」  芹が言うと、実津瀬は芹を引き寄せて抱いた。 「私の舞の女神が言ってくれると、できるという勇気が湧いてくるよ」 「女神だなんて、そんな大そうな者ではないわ」 「でも、私にはそうとしか思えないんだよ」 「買いかぶり過ぎよ」  二人の会話の間にも実津瀬の手は動いて、体の前で結んでいる芹の帯の端を引っ張った。胸の前の合わせを押し広げて、胸の上に口づける。 「今は舞のことより芹のことだけ考える」  芹は実津瀬の頭を胸に抱いて、後ろに倒れた。  岩城一族の一員としてこれから宮廷で出世していかなければならない。舞を自分が納得するまで極めたい。息子を一族の一員としてしっかりと育てなくてはいけない。  頭の中を埋め尽くす無数の考え事を押しのけて、今夜は芹の胸の上で眠りたい。  実津瀬は起き上がって、自ら寝衣を脱いで、再び芹の胸に臥せた。
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