第五章4

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第五章4

 門を出てから、しばらく歩いて実津瀬は鷹野に訊いた。 「今日の集まりは何だ」 「今、地方の領地を管理する者が都に集まっている。それで小さな宴をするのだが、実津瀬が舞うので、その応援も兼ねるのだ」  実津瀬と鷹野は肩を並べて岩城本家へと向かった。  高い塀が続く代わり映えのしない道に初めて通る者は、この塀はどこまで続くのかと思った時、これが岩城本家の邸を囲う塀であると気づくのだった。  広大な土地にいくつもの建物が建ち、庭には舟が浮かべられるほどの大きな池がある。この高い塀の向こうには想像もつかないほどの贅が尽くされている。その中を垣間見た者の中には、王宮を超えているのではないかと思う者もいた。  それほどに岩城本家の力は強大だった。  鷹野は入り慣れた裏門から入って行った。  岩城本家では、正門以外の門にも誰かしら番人が立っている。今も裏門を見張る男が深々と頭を下げて鷹野達を迎えた。 「実津瀬!久しぶりだな!」  鷹野に続いて階を上がると、稲生が待っていた。 「やあ、久しぶりだ」  年の近い、実津瀬、稲生、鷹野の中で最初に結婚したのは稲生だった。夫婦仲もよく、子供が一人いる。  お互いの妻や子供のこと、最近の仕事のことなどを口々に言い合って、簀子縁を進んだ。  池に面した広間に岩城一族の面々が集まっていた。実津瀬たちの祖父に当たる園栄や、稲生、鷹野の父である蔦高、その弟である叔父の志埜部も揃っていた。もちろん、実津瀬の父、実言も蔦高と志埜部の間に座っている。  鷹野が言った通り、この日は岩城が治める地方の領地の管理を任せている者たちが広間の末席に座っている。  出席者の大体がそろったら、岩城園栄、蔦高が挨拶をし、宴会となった。庭では音楽が奏でられて、膳の上には地方からもたらされた食材で作られた料理が並び、普段食べない珍しい料理に舌鼓を打ち、酒が振るまわれた。  実津瀬、稲生、鷹野と年の近い者は近くに座ってあれやこれやと雑談をしていた。  鷹野は自分も飲むが、人に飲ませるのも好きで、実津瀬が杯に口をつけたらすぐに注ぎ足していた。 「鷹野、大して減っていないのに注ぐのはやめてくれよ」 「いいじゃないか。今日くらい羽目を外しても」 そういう鷹野は、目の色が変わり始めている。目の座った鷹野に絡まれるのをあの手この手でかわしていると、上座から実津瀬を呼ぶ声がした。  祖父の園栄が呼んでいた。 「実津瀬、一足早くお前の舞を見せておくれよ」  その声に拍手や見たいぞ、という声が上がった。  稲生が実津瀬に立ち上がるように手で指示する。  実津瀬は立ち上がった。 「志埜部もどうだ」  と兄の蔦高が声を上げた。志埜部は若い頃に舞をやっていた。 「やめてください。私はもう実津瀬には敵いません。恥をかくだけです」  と言ったが、隣に座っている実言に何か言われて、立ち上がり実津瀬を手招きした。  志埜部が広間の前の簀子縁に出て行ったので、実津瀬も簀子縁に出た。志埜部に耳打ちされて頷き、階を下りて庭の演奏者で一番近くにいる笛の奏者に耳打ちした。  昔から宮廷の行事で舞われている舞を志埜部は実津瀬に打診したのだ。それなら、何とか舞えると踏んだ。実津瀬もその舞は幼い頃から舞っていて体に沁み込んでいる。慌てることなく舞えた。  音楽が始まり、二人は最初は動きを揃えて舞っていたが、途中から志埜部はでたらめな舞をした。実津瀬の完璧な舞に敵わないため、お道化てしまおうと思ったのだ。その姿に皆が笑って志埜部の思いは通じた。実津瀬は厳格にその舞の決まった型を美しく舞って見せた。舞が終わると、皆が拍手をした。園栄は立ち上がり声を張り上げた。 「実津瀬、お前は希代の舞手になった。一族から舞を好む者は何人もいたが、お前ほどの舞手になった者はいない。月の宴の勝負には、必ず勝って岩城一族の名を揚げておくれ」  実津瀬は祖父からの言葉に、簀子縁で頭を下げた。  宴もたけなわなところで、宴会はお開きになった。 「実津瀬、実言伯父上は泊まっていくらしい。実津瀬も泊まっていくだろう」  鷹野が言った。  父の実言はいろいろと話すことがあるのだろうが、実津瀬は泊まるほどの用事はなかった。 「いや、帰るよ」  本家がある三条と、岩城実言邸がある五条は遠くなく、実津瀬は帰ること選んだ。 「えっ、久しぶりに夜通し話をしようよ。まだ、夜はそれほど更けていない」 「明日も仕事があるし、芹に何も言っていない。今日は帰るよ」  鷹野は遣いを出して、知らせればいいだろうと言ったが、実津瀬は断った。  実津瀬は祖父、伯父の蔦高たちに挨拶した。玄関まで稲生と鷹野が見送ってくれて、今度は同年代の仲間たちと集まって気兼ねなくゆっくりと話そうと言って別れた。  供を一人連れて、五条の邸に帰ると、母の礼とその侍女が迎えてくれた。 「父上は本家に泊まるそうです」 「一足先に遣いが知らせてくれました。あなたも泊まると思ったわ。だから先ほど、芹に実津瀬は帰らないと伝えたのよ」 「そうですか。ああ、母上、いいですよ。私はすぐに芹のところに行きますから」  控えていた侍女を芹のところに行かせようとする母を制した。 「母上はお休みください。父上や私を待っていて、お疲れでしょう」  礼は実津瀬の言葉に従って、夫婦の部屋へと下がって行った。  その背中を見送って、実津瀬は離れに渡る廊下へと向かった。  今夜、自分は帰らないと聞いて、芹は部屋の灯りを消して眠りに着こうとしているだろうか。  横になったところをまた起こしてしまうのは、申し訳ないと思った。  簀子縁を歩いて行くと、御簾も蔀戸も下ろされていた。  階のある庭の正面に周り込む手前で、庭に天彦が立っているのが見えた。屋根の軒に下がる釣り灯籠の明かりがその姿を照らしている。今の時間までも芹の護衛として庭で番をしてくれているかと思った。  天彦は樹の陰に身をひそめて、じっと部屋の方を見ている。そのせいで、実津瀬が側面の簀子縁を歩いて来ているのも気づかない。  あんな目をして、何を見ているのだろう。  実津瀬は角を曲がって、庭の正面の部屋の庇の間を見ると、庇の間に芹がいた。  芹……  それも、芹が舞をしていた。釣り灯籠の明かりの中で、芹の細い体が手を広げて舞っていた。  最初はいつもの芹の自由な舞かと思って見ていたが、その動きを見ていると。  これは……  実津瀬は驚いた。  いつの間に覚えたのだろう……。いや、いつも見守ってくれていたのだから、自然と頭に入ったのかな。  芹は裳を着けて舞っているから足さばきまではわからないが、手の動き、体の向き、動きは実津瀬が月の宴の一人舞として練習しているものだった。  実津瀬が舞う鋭さはないが、その代わりにたおやかさが出ていて美しい。その舞は水面に落ちた葉が留まることなく水流に流されるようにどこまでもどこまでも続いて行く。  実津瀬は引き込まれて、簀子縁からその姿をじっと見つめていた。  くるっと回った時に、簀子縁に立つ夫の姿を見つけて、芹はすぐに動きを止めた。 「まぁ!」  今夜は本家に泊まると聞いていた夫が帰って来ていることと、誰も見ていないと思って舞っていた姿を見られた恥ずかしさで声が上がったのだった。 「驚かせてすまない。盗み見るつもりはなかった」  実津瀬は庇の間へと入って、芹の前に立った。 「私の舞だね」 「……恥ずかしいわ。あなたの舞に比べたら足元にも及ばない」 「そんなことはない。いつの間に覚えたのだ」 「……実津瀬が何度も考えて作ったものを私も舞ってみたかったのよ。でも難しくて、あなたがいない時に何度も舞ったわ。……今夜は、本番のように夜の灯りの中で舞う気持ちはどんなものかしらと……あなたは帰って来ないと聞いたので。私の舞は……見せるものではないわ……本当に恥ずかしい」 「あなたの自由な動きが加わっていておもしろい。それに私の作ったものを、観客のように見せてもらえてよかった。見ている人にどのように見えているのかよく分かった」 「私の舞なんて……遊びよ」 「もし芹が男に生まれていたら、きっと私と同じように舞をしていただろう。そうであったら、私の舞の強敵となっていただろうな」 「そんなことあるかしら。でも、私は……女に生まれてあなたに出会いたい。違う道があるとしてもあなたの妻がいいわ」  芹の言葉が終わると、実津瀬は芹の体を抱き締めた。 「芹は私に遣わされた舞の女神だ……あなたがいないと、私は舞を続けることはなかった」  耳元で囁いて、顔を上げた。  にっこりと笑う芹の顔が、簀子縁の釣り灯籠の明かりではっきりとわかる。  過去に囚われて暗い表情をしていた芹が実津瀬の元に来て、その観念から解き放たれて笑う顔は可愛らしい。  実津瀬は芹と唇を重ね、強く吸った。いつもの愛情の現れであり、若い二人にとってはいつものことだった。 「……あっ……」  しかし、いつもより激しい接吻が、唇から首筋へと移って行くと、芹は吐息を漏らした。  淳奈を産んでから庇の間のような外に近い場所でこのような行動をすることはなかったのに、と思った。重ねた 唇から酒の味がしたから、少し酔っているのかもしれない。 「芹……先ほど言ってくれた言葉……本当なら私を抱いておくれよ」  先ほど言った言葉とは、実津瀬の妻以外の道は選ばないと言ったことだ。 「嘘なんて言わないわ……心から思っていることよ」  芹は実津瀬の背中に手を回し、その胸に顔を埋めて言った。  芹が顔を上げると、実津瀬は芹の右の腕を取り、自分の肩へとその手を上げた。反対の手を芹が自ら同じようにあげて実津瀬の首に両手を巻き付けた。 「安心した」  実津瀬は言って、芹の体を上に引き寄せて再び芹と唇を重ねた。芹はつま先立ちになった。  実津瀬は芹を引きずるようにして簀子縁に下りる手前まで移動した。  熱い口づけに、簀子縁の近くまで移動することを芹は不思議に思ったが、傍には誰もいないのだから、気にすることもないかと思った。  激しい実津瀬の口づけに芹は驚いて、下を向こうとするので、実津瀬は、芹の頤に親指を当てて上向かせ、仕切り直しに再び吸った。その時、ちらりと、視線を庭へと送る。  庭から芹を盗み見ていた男が今もこちらを見ているかもしれない。  その男にこの姿を見せつけないと気が済まない  芹と淳奈を守るために傍に置いた男だが、そんな心が芽生えるなんて想像もしていなかった。芹は謙虚で優しい女人だから、惹かれてしまったのだろう。芹にその気がないのはわかっているが、男が今後どう思いどう行動するかは分かったものではない。 「……実津瀬……」  口が離れた時に、芹が言った。  庭の正面に巻き上げていた御簾に手を伸ばし、結び目の一方の端を手に取って引っ張った。御簾はスルスルと落ちた。 「奥へ行こう。芹が欲しい」  実津瀬は言って、奥の寝所へと芹を連れて行った。
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