第五章9

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第五章9

「兄様!」  一族はまだ翔丘殿には来ていないかな、と思いながらも観覧の間に向かった実津瀬の前に弟の宗清が現れて、元気に声を掛けて来た。 「宗清、みんなは?」 「もう、着いています」  宗清が廊下から部屋の中に入ると、子守の苗の膝に座っていた淳奈が立ち上がって、宗清のところまで走って来た。 「にいさま」  淳奈は叔父の宗清をにいさまと呼んでいた。宗清が淳奈を抱き上げると、後ろをついて来ていた父の顔が見えた。 「とうさま!」  淳奈は叫んで、父の方へ手を伸ばした。足をバタバタさせるので、宗清は淳奈を落とさないように気を付けて、兄の実津瀬に預けた。 「とうさまのお顔……」  顔全体におしろいが、目元と鼻筋に朱色が塗られた顔を不思議そうに見つめている。  「淳奈、これは舞をする時のお父さまの顔だよ。どうだい?きれいだろう?」  宗清叔父に言われて、淳奈の小さな手は父の鼻筋の朱色へと伸びた。 「おっと、淳奈。だめだよ、触っては」  宗清が甥の手を掴んだ。 「これからお父さまは舞をするんだからね。きれいなお顔じゃないといけないんだよ」  淳奈はそう言われて納得したのか、父の首に手を回し、肩に顔を押し付けた。  淳奈を抱いた実津瀬と宗清は部屋の中に進んだ。  翔丘殿の建物は庭を囲むように立てられており、正面とその左右に広がる観覧の間には、それぞれの位に応じて席を割り当てられる。  岩城一族は正面に近い左翼の部屋を割り当てられていた。  実津瀬の舞を観るために本家、分家から多くの人が観覧に来る予定だ。侍女や従者を含めると結構な人数である。  部屋の内と外を入れ替わり立ち替わり侍女が行き来している。慌ただしい中を庭に面した部屋まで行くと、母、妻と妹たちの姿が見えた。 「実津瀬、来てくれたのね」  母の礼が言って、その言葉で妻の芹が振り向いた。妹の榧、珊もつられてこちらを向いた。  皆、眩しいほどに着飾っている。 「みんな、美しいね。眩いよ」  実津瀬は言った。抱いている淳奈が目をしばたたかせた。実津瀬の言ったことを理解しているようだ。 「まあ、淳奈。そんなにお目目をぱちぱちとして」  礼は言って笑った。 「兄様は、姉さまのことを言っているのよ。淳奈もお母さまの姿を見てそうしたのよね」  榧が言って、芹の方を向いた。  実津瀬は芹を見て、笑顔になった。 「我妻もそうだが、この場にいる女人は皆、美しい。私の舞を観るために随分前からどのような衣装にするか考えてくれたのだろう。美しい姿で来てくれて嬉しいよ」  さらりと女人を美しいと褒めるのが実津瀬であった。  小さな頃から変わらないと、母の礼は思って笑顔になった。  妻が着飾っている姿は、いつも見ている姿と違って新鮮で、実津瀬は目を細めた。  日頃も、気を使ってか適当な格好をしているわけではないが、やはり大勢の人の前に出る姿は一段違っていた。  化粧をしていない顔も好きだが、化粧をした顔は芹の顔を一段と引き立たせていた。  芹の隣には妹の榧が立っている。芹が見て欲しいと言っていた妹の姿。  鴇羽色の袍の上に、赤色の生地に薔薇の姿が浮き出た刺繍を凝らした背子を重ねて、袍と同じ鴇羽色の裳を着けている。帯は緑、赤、金色で編んだ凝ったものである。肩からまとっている領巾は背子の赤よりも紅く、全部に花文様が入っている。髪は頭上一髻にまとめ上げて、左右から花をかたどった髪飾りを挿している。どこから見ても贅を凝らした美しい出で立ちで、芹が見てあげてということも分かった。 「榧、今日はまた一段とめかし込んで、美しいものだ。王子もその姿には目を見張られることだろう」  実津瀬が言うと、榧は頬を赤らめて言った。 「兄様、からかうのはやめてください。私など、着飾ったところでたかが知れています。王子をがっかりさせないように精一杯背伸びをしているのですよ」 「母上や芹、珊と」  榧の後ろに隠れるように立っている一番小さな妹、珊に実津瀬は視線を送った。 「一緒に選んだんだろう。よく似合っている。実由羅王子も褒めてくださるだろう」  実津瀬の言葉に、榧は頬を赤らめた。  息子の淳奈を膝に抱いて、弟の宗清と並んで座り、女人四人を前に実津瀬はたわいのない話をした。 「お兄様、化粧が似合っていますね。とてもきれい。ねえ、姉さま」  榧が芹に言った。芹は頷いて、にこやかな笑顔を見せた。  淳奈はまた、父の顔を見上げてその顔に触れようと手を伸ばした。 「淳奈、だめよ。お父さまは今から舞をされるのですから、触ってはいけません」  淳奈は、今度は母の芹に手を掴まれて、父の顔を触ることを阻止された。 「いいんだよ。少しくらい気にしないよ」  実津瀬は言ったが、その顔は大王や桂をはじめとした王族に見せるのだから、むやみに触ってはいけないと、芹は息子の手を下ろさせた。 「まさかこれが舞の衣装ではないでしょう?」  実津瀬が羽織っている上着に、母が言った。 「ええ、もちろんです。芹はわかっているでしょうが、これは朝、邸を出る時に来ていたものです。舞の衣装は、桂様がこの日のために自ら費用を出して作ってくださったものを着ます。とても素晴らしいものなので、私が舞台に上がった時に見てください」 「そうなのね。楽しみね」  礼は呑気な声で答えた。  身近な家族と他愛もないことを話し、終始実津瀬は笑っていた。  遅れて本家の面々が翔丘殿に到着した。稲生が妻と子供と一緒に現れた。鷹野は一人である。鷹野の妻で芹の妹である房は子供を産んで間もないので、今回の出席は諦めた。芹は内心がっかりしている。  本家の人々から舞に期待する言葉を掛けられて、実津瀬は緩んだ心が再び緊張してきた。 「そろそろ控えの間に戻らなくてはいけない」  実津瀬は言って、辺りを見回した。 「あれ……実由羅王子は隣の部屋ですか?」 「実言様がお迎えにいっているわ。そろそろこちらにお着きになる頃よ」  礼が応えた。 「そうですか。では、榧も準備をしなくてはいけないね」  実津瀬は立ち上がり、皆がそれに従って立ち上がった。  淳奈の手を芹は実津瀬から受け取った。 「淳奈と一緒に見ていますね」  実津瀬は頷いた。 「兄様、束蕗原の姉さまも応援しているはずです」  榧に顔を向けて、実津瀬は頷いた。束蕗原の姉さまとは、蓮である。蓮にも自分の舞を観て欲しかったと実津瀬は思った。 「では、いって行きます」  勝負と名がついたことに負けることは口惜しく、一族一同は実津瀬に声を掛けて送り出した。  皆と別れて実津瀬は部屋を出たところで若い声に呼び止められた。 「実津瀬!」  振り返ると、実由羅王子が立っていた。その後ろには父実言が付き添っている。 「王子!お久しぶりです!」 「この宴に合わせて、昨日、佐目浜から帰って来た。今日が楽しみで仕方がなかったよ」  実由羅王子は実津瀬の前に立った。実津瀬の後ろから、宗清が顔を出した。 「王子!いらっしゃい。お久しぶりです」 「いや、宗清!お前とは昨日会ったはずだ」  宗清はお道化て実津瀬の言うことをまねたが、昨日、実由羅王子が自身の領地である佐目浜から帰って来たのに合わせて王子の邸を訪ねていたのだった。 「もう行ってしまうのか」 「ええ、陽が西の山にかかっています。そろそろ篝火も用意されるでしょう。私も仲間たちと準備をします」 「前に帰京した時に桂様がわざわざ私の邸を訪ねてくださり、月の宴や舞について教えてくださった」 「桂様は、舞楽好きの仲間をたくさん作りたいのですよ。大王や有馬王子など多くの方が舞を好まれています。実由羅王子も仲間に引き入れようとされているのでしょう」  後ろに立つ岩城実言が言った。 「ありがたいことだ」  実由羅王子は言って、実津瀬に向き直った。 「小さな頃は実津瀬の舞を観て、少し真似をしていたけど、佐目浜の領地に行くようになってからは風雅なこととは縁遠くなってしまったから、桂様からのご講義は楽しかったんだ。だから、今日が待ち遠しかった。今夜の舞は対決だ。勝負とは勝ち負けを決めなくてはいけない。もちろん、最高の舞を見せて、実津瀬に勝って欲しい」 「王子、必ずや、そのお言葉を実現します」  実由羅王子が頷くのを見て、実津瀬は王子の後ろについていた父に頭を下げて、無言の挨拶をし、翔丘殿の奥にある控えの間に向かった。 「榧はいる?」  実津瀬は背中で、実由羅王子が宗清にそう訊ねている声を聞いた。
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