第一章7

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第一章7

芹は用意された褥の上に横たわり、枕に頭を着けると目を瞑った。驚きと恐怖で目を開けていられなかった。 離れた義母の礼が戻って来て、芹の枕元に座った。別室に寝ている淳奈の様子を見て来たのだ。 「淳奈は苗に抱かれて眠ったわ」 そう聞いて、芹は少し安心した。池に落とされた時は体が痛かっただろうし、池の水もたくさん飲んでしまったはずだ。助けるためだが、従者の天彦が逆さにして持ち上げ、水を吐かされたのだ。大変な思いをさせてしまった。 芹は礼に向けていた顔を上に向けて再び目をつむった。 「芹……何が起こったの?」 礼が座ったのは、なぜ池に落ちたのかを教えてもらうためだ。 芹は何から話したらいいのかわからなかった。淳奈が誤って池に落ち、それを助けに入った自分も溺れた、というような話ではない。 義母の礼は見たことを見たまま話せばいいと言った。後のことは、義父の実言と、夫の実津瀬に任せたらいいのだからと。 淳奈から目を離した私が悪かった。小さな体は塀の下側を切り取って外の池から水を取っている小さな小川の流れる水の少なさもあり足か濡れるのも構わず、好奇心のままに外へと出て行ってしまった。しかし、怖くなった淳奈は声を上げ、芹はすぐに気づき、外へ出て淳奈の姿を見つけた。駆け寄って抱き上げるはずが、どこから現れたのかわからない男が芹を追い越し、淳奈の体を持ち上げて去ろうとした。とっさにその袖を掴んで叫び、淳奈も大きな泣き声を上げたから、男は怯んで淳奈を池へと放り投げた。芹は淳奈を追って、池の中に入ったから、淳奈を連れ去ろうとした男の顔をはっきりと見ることはなかった。 芹はとつとつと礼に話した。 話している途中から芹は気分が悪くなって、真っ白い顔になった。 礼は芹の体を少し起こして、用意させた薬湯を飲ませると、眠るように言った。 「大丈夫よ。後のことは旦那様に任せて、芹は体を休めなさい」 義母の言葉に芹は目を閉じた。体も気持ちも限界だったようで、すぐに意識はなくなった。 気を失った芹の真っ白な顔を見つめて、様子を窺っていた礼は夫が戻ったと聞いて、侍女の編にその場を任せて、夫のいる部屋に戻った。 泣き叫ぶ淳奈と芹の声を聞きつけて邸の者が出てきたら、淳奈をさらうどころか自分が捕まってしまうことを恐れたのだろう。捕まったら、なぜ岩城家の者を狙ったのかを、洗いざらいしゃべらされて死ぬしかない。 岩城家の中心にいることは、命を狙われることを覚悟しておかなければならない。それは、実言も経験したし、また実津瀬も同様だ。そして、まだ幼い淳奈も岩城家の男子の宿命を味わうことになった。 礼から芹の話を聞いた実言は頭の中ではそう整理した。 「芹に……淳奈にもだが、怖い思いをさせて、かわいそうなことをした」 実言は言った。 「実津瀬は?」 「二日後は月の宴ですから……稽古場で舞の仕上げをしているところでしょう」 そうか、と実言は言って黙った。 礼は淳奈のところへ行き、枕元に座って褥の上に横たわっている姿を眺めた。思いのほか水は飲んでいなかったし、体を見ても傷はなく、安静にして少し様子を見ることにした。何事もなかったようなあどけない寝顔に大人たちは少し安心する。子守の苗や束蕗原から来ている医者に後を任せて、礼は芹が寝ている部屋に行った。 淳奈とは反対に、芹は肉体的にも精神的にも傷を負ったようで、白い顔が額に汗を浮かべている。 夜に実津瀬が帰って来くると、礼が庇の間で簡単に昼間の出来事を説明した。それから、奥の部屋に行き、実津瀬は芹の横に座った。衾から出ている右手を握っても、芹から反応はない。疲れからか今も深い眠りに落ちている。しばらく見守ってから、淳奈の部屋へと向かった。 淳奈は寝返りを打っており、よく眠って、元気であることが窺えた。 「淳奈は大丈夫のようだ」 そう呟いてから、父の部屋へ向かった。 部屋には父の他にこの邸の家政担当の舎人、忠道も座っていた。実津瀬が入って行くと、さっと座る位置を下げた。 父の見立てに実津瀬も頷いた。 誰かが、または何かの勢力が岩城一族を狙ったのだ。 「誰だろうね」 実言は言った。 忠道も神妙な顔で考えている。お互いに思い当たる人物や勢力が浮かんでいるが、声に出しはしない。 「外から見ていたのだろうね。そこにちょうど良く淳奈が塀の外に現れた。計画していたことではないから、あっさりと淳奈を手放してくれたのだ。それは幸運だった」 実言は言った。 「宗清にもよく言って聞かせないといけない。最近のあの子は好き勝手にやっている」 実津瀬が言うと、末っ子の生活を聞いている実言は笑っている。 「本家にも話しておこう。まあ、あそこはうちなんかよりもっと厳重に警備をやっているだろうけど」 実言は言った。 夜も更けて、実津瀬は離れに帰ると、侍女の槻が待っていた。 「どうしたの?」 「芹様が大変お苦しみで、今礼様とお医師の方で診ておられます」 「えっ!芹が!私も傍に」 「いいえ。礼様がお呼びになるまではお待ちください。夜も深いですから、お休みになってください」 そう言って、実津瀬は芹が寝ている部屋とは反対側に連れていかれた。母の言いつけだろうから、槻に抗うことなく部屋に入り、設えられた褥の上に二日後に控えた月の宴の舞の練習で疲れた体を横たえた。直ぐに眠りに入り、目が覚めたのは夜明け前だった。 実津瀬は体を起こした。 芹はどうしただろうか……。 誰も呼びに来ないということは、芹はまだ苦しんでいるのだろうか。芹が望むなら傍にいて手を握ってやりたいが、そのような余裕もないのだろうか。 実津瀬は庇の間に出て、上げたままの蔀から夜明け前の群青の空にある白い月を見上げた。 侍女たちが朝餉の用意をしてくれて、さて食べようか、としたところに、母の礼が現れた。実津瀬は手にした椀を膳の上に戻す。 母は左目を失くしており、傷口を見せないように眼帯をしている。そのため、顔を表情は読み取りにくいのだが、今目の前に座った母は悲しそうな顔をしている。 どんな良くないことが行ったのか、実津瀬は居住まいを正した。 「……母上……芹は……」 「……ええ、今寝ているわ。眠らせたの……」 礼の調合した薬で芹は深く眠ったという。 「お腹に……ややがいたのよ。でも、流れてしまって……芹は何となくわかっていたみたい。悲しんでね、泣いてね。眠らせたわ」 実津瀬は母の後ろをついて行った。途中、淳奈の部屋によると、淳奈は子守の苗に抱かれていた。実津瀬を見ると。 「ととしゃま」 と言って、手を伸ばしたので、苗が立ち上がって淳奈を実津瀬の前に連れて行った。 実津瀬に抱かれて、淳奈はにこにこと笑って、両手で実津瀬の頬を撫ぜる。 昨日のことは忘れたような明るさだ。しかし、何かの拍子にあの時の恐さや驚きを思い出すかもしれないと、大人たちは心配した。 ふと気づいたように、淳奈は実津瀬の目を覗き込むように見つめて言った。 「かあたま」 母を思い出したようだ。 「お母さまか。お母さまはご病気だから、会うのはもう少し待っておくれよ」 実津瀬は言うが、淳奈にはわからない。 「かあたま……」 泣き出しそうな淳奈をなだめて、苗に淳奈を渡すと、実津瀬は芹の寝る部屋に向かった。とうとう泣き出した淳奈の声が聞こえてくる。 芹が寝ている部屋に入ると、芹は真っ白な顔色で眠っていた。 「夜通し苦しんでいたからね。眠らせてあげないと」 いつも淳奈の泣き声がすると、すぐに気づく芹だが、今はその声も届かないほど深いところで眠っているようだった。 実津瀬は衾の上に出ている右手を握る。 「……目覚めた時に、傍にいてやりたいな……」 実津瀬は呟いた。 「あなた……明日は月の宴が……」 「……そうだった……でも……私の舞など何度も見ていただいているし……無理して舞う必要もないよ」 実津瀬はくるりと隣に座った母の方へ向いて。 「父上のところへ行ってきます」 と言って立ち上がり母屋へと向かった。
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