序章:福音

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 杏味ちゃんは少し眉を顰めつつ、コートを脱いで綺麗に畳み、僕の隣に座った。コートの下には可愛らしいふりふりのついた割合子供っぽい服を着ていた。間近で見ると、ほど良く肉のついた腕や脚は透き通るように白い。腰のあたりまで伸びた痛みとは無縁そうな黒い髪といい、背中に針金でも入れているのかと疑うほどに綺麗な姿勢といい、苺等の果実を連想させる小さな唇といい、長い睫毛といい、本当に人形のようである。 「なにか?」  僕が()めつ(すが)めつしているのを不審に思ったのか、杏味ちゃんは怪訝(けげん)そうに見上げてきた。 「いや、なんでも。僕は結鷺觜也。今回は君の別荘にお邪魔させてもらうわけだけど、何卒よろしく」 「正しくはお爺様の別荘です。私が所有者のように振る舞うのはお門違(かどちが)いとなりますわ」  舞游がそこで「お金持ちなんだねー。どんな悪いことしてるの?」と問い掛け、杏味ちゃんはまたしても眉を顰めた。こんなに非常識な人間を見るのはもしかして初めてなんじゃないだろうか。  舞游の質問には再び車を発進させた有寨さんが答えた。彼はこの国に住む人なら誰でも知っている大企業の名前を述べ、その前社長が杏味ちゃんの祖父であり、現社長が叔父、杏味ちゃんの父親も幹部のひとりなのだと話した。想像を遥かに上回る事実に、僕はにわかに緊張した。そんな大人物と関わることになるなんて聞いていない。舞游もいままで知らなかったらしく「すごいなあ」なんて呑気に云っている。 「よくお兄ちゃんみたいなのが家庭教師なんてできたね」 「身にあまる話だよ。別荘を貸してくれるというのも、願ってもないご厚意だ。甘えさせてもらうことにはしたが、はじめ聞いたときは萎縮(いしゅく)してしまった」  杏味ちゃんが「ご謙遜を」を割り込んだ。 「私の先生は有寨先生以外に有り得ませんでしたわ。私の方こそ、先生と出逢えたのは僥倖(ぎょうこう)でした。今回のこともほんの恩返しのひとつでしかありません」  ……なんだろうか。僕はこのとき、なにかうすら寒いものを感じた。しかしその正体が分からないうちに、舞游の「環楽園も立派なお屋敷なの?」という声で不穏な思考は断ち切られた。 「俺と霧余は下見を済ませてあるが、立派だよ。この人数では持て余してしまうだろうな」
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