第一章:環楽園の殺人

5/107
前へ
/199ページ
次へ
 杏味ちゃんはちらと僕を見たが、すぐに隙間なく並べられた本の背を指でなぞっていく作業に戻る。 「まだ終わっていませんわ。もうしばらく掛かるようです。よろしければ、此処(ここ)で少しお話しましょうか」 「それは良いけど……。もしかして杏味ちゃんも霧余さんに追い出されたの?」 「そう云っても差し支えはありませんわね」  生粋のお嬢様であるところの杏味ちゃんが箸以上に重いものを持ったことがない類のそれなのか、はたまた女性の嗜みとされる諸々については英才教育でみっちりたたき込まれている類のそれなのか……礼儀作法がしっかりしているところから後者かと推測していたけれど、料理に関しては前者だったということか。霧余さんが想像以上に職人気質であるという可能性もあるが。 「私は彼女とは馬の合わないところがありますから」  そう云えばそんな話もあった。ならば料理の技術云々(うんぬん)が問題というわけでもなかったのだろうか。……よく考えてみると、舞游、霧余さん、杏味ちゃんと、およそ協調性の見られない三人である。舞游以外は漠然としたイメージだけれど。 「どういうところが合わないの?」 「ここで正直に述べますと心象を害しそうです。なので自粛しますわ」 「ああ……僕もちょっと無遠慮な質問をしちゃったね」 「お気になさらず」 「有寨さんはどんな人なの? 僕は舞游の付き添いで来たから、他の人達については全然知らないんだけど」 「有寨先生は尊敬に足る人物です。あの人の生徒であることこそ、私が唯一誇れる事柄です」 「たしかに言動の端々から、大人だなって思わされるよ」  杏味ちゃんはキッと僕を睨んだ。 「そんな月並みな言葉では追い付きませんわ。既存の言語で表し得るような人ではないんです」  その高校一年生の女の子らしからぬ剣幕に、僕は身が竦んでしまった。そこまで凄まれるほどの失言だったか疑問だけれど、有寨さんに関してはお為ごかしのような返答はしない方が良さそうだ。 「ごめん」 「いえ、構いませんわ」  杏味ちゃんは元の人形然とした顔つきに戻って、また本棚に仕舞われた書物の群れをなめ回すようにチェックしていく。 「有寨先生へは私の両親も共に厚い信頼を寄せてますのよ。そうでないと、私を単独で任せるはずがありませんから」
/199ページ

最初のコメントを投稿しよう!

34人が本棚に入れています
本棚に追加