一年前

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一年前

 黒丸は自殺することへの期待を胸に膨らませ過ぎて、結局一睡もできなかった。眠りにつこうとしても眠れなかった。だけどその時間も黒丸にとっては苦ではなかった。むしろ罪から逃げ続けてきた人生の方が苦であった。  黒丸はそっと身体を起こす。時計を見ると朝の三時半だった。計算すると五時間も布団に入っていたことになる。体感だと二時間ぐらいのはずだった。それほど黒丸は興奮していたのだ。  隣で横になっている里穂に目を向ける。里穂は目を瞑っていた。寝ているようだった。そんな里穂の髪に触れ、里穂の寝顔を目に焼き付ける。死ぬ間際だというのに、里穂のことが人生で一番愛しく感じた。  黒丸は着替えて顔を洗い、あの日と同じようにお茶を飲む。そして玄関のドアを開けて死場所に向かった。  里穂は結局のところ眠っていなかった。夫が過去に殺人を犯したことを知り、そして明日自殺することを告げられたのだ。眠れるはずがなかった。  かなりの時間複雑な感情に浸っていたら、黒丸が身体を起こし、自分の髪に触れた。起きていることを知られたくなかった里穂は咄嗟に目を瞑り、寝ているフリをする。そして黒丸は身支度を整えてドアを開けていった。  ドアが閉まる音が聴こえ、里穂も身体を起こし、パジャマのまま、黒丸にバレないようについていった。  外に出ると雨がぽつりぽつりと降っていた。雨雲のせいで光は遮られている。  里穂が外に出たらもう黒丸の姿はなかった。だが、焦ることはなかった。黒丸はおそらく例のショッピングモールに向かうのだろう。里穂は携帯でルートを調べようとした。だが、未完成のショッピングモールの住所などネットでは載っていなかった。仕方なく誠が黒丸を殴った分かれ道に向かうことにした。  しばらく歩くと分かれ道が見えた。里穂は一度も足を踏み入れたことのない方の道を進んだ。そこからは分かれ道はなく、ただ道のある方へ進んでいった。そして例の建物が里穂を見下ろすように建っていた。  里穂は周辺を散策し、階段を見つける。金属の音が階段を登る度に大きな音を鳴らす。  屋上まで登っていく。流石に屋上までの階段の道のりは険しく、意外としんどかった。  屋上につくと二人の男の影が見えた。里穂は物陰に身を潜め、二人の会話に耳を澄ませる。  一人は黒丸だった。そしてもう一人も知っている顔だった。未成年で覚醒剤を使用して顔写真がネットにあがっていた新田悠の顔だった。この男は黒丸とどういう関係なのだろうか。    黒丸が屋上に着いた時、そこには既に新田が立っていた。  「おいおせーぞ、三時に待ち合わせしたろ?」  新田は二十年前と変わらない笑顔を見せ、黒丸に冗談を言う。しかし黒丸は新田の冗談を無視した。冗談に笑わない黒丸を見て新田は真面目な顔で美緒の死んだ方向を見つめる。  「二十年前ここで美緒は死んだ。自殺した。」  「自殺じゃないだろ。俺が殺したんだ。俺があの時美緒の手を離さなかったら。」  「お前のせいじゃない」  新田は黒丸を見ずに淡々と話す。黒丸は新田の発言に顔をしかめる。  「何が言いたい?」  「俺も最初はお前みたいに自分を責めたよ。俺があの時すぐにもう片方の手で美緒の腕を掴んでいたらって。でもな、俺が覚醒剤を使ったってのはお前にも言ったろ。」  そのことは黒丸は覚えている。新田は未成年という若い時期から覚醒剤を使用し、一回逮捕されている。逮捕されても結局覚醒剤の快感が抜けきれず、今でも一週間に一回使用していることも。  「初めて使用した時さ、俺も罪の意識を紛らわせるために友達の誘いに乗っちゃったんだ。そしたら美緒のこととか、後悔とか、悩んでたものが全部どうでもよくなってさ。それから毎日使うようになってね。逮捕されて刑務所に入った時にさ、久しぶりにクスリ抜けてる状態が続いて、そん時思っちゃたんだよ。美緒は俺が殺したんじゃなく、俺が救ったんだって。」  黒丸はどこか誇らしげに語る新田を見つめる。  里穂は二人の会話に耳を澄ませる。  「結局あの時俺が美緒の腕を掴んでたとしても、美緒はあの後一人で自殺しちゃうんだよ。俺らが助けたところで美緒は地獄に戻るわけじゃん。一人殺して逮捕されて、少年法が守ったとしても今の世の中だと一度罪を犯したら普通にはなれないわけじゃん。さらに誠が足を引きずってるのをこれから見続けないといけないだろ。そんな地獄のような世界なんて自殺しちゃうだろ。だから俺らがあの時美緒の腕を離して、美緒を地獄から解放してやったんだ。救ってやったんだよ。」  新田は黒丸に歩み寄る。  「俺らは美緒を救ったんだ。だからもう自分を恨むな。お前も過去から解放されろ。」  「ふざけるな!」  黒丸は新田の腕を払いのける。  「美緒を救った? ふざけんなよ! 俺が手を離したせいで、美緒の親は酷く悲しんだ! 誠も! 誠は今でも苦しんでいる! 俺が手を離したから、たくさんの人々が悲しんだ! 殺人はたくさんの人の心を抉るんだよ!」  里穂は二人の会話を聞いて、黒丸の自分が青原美緒を殺したという発言は、青原美緒が飛び降りた時手を掴んだけど、その手を離したことを意味するというのを読み取る。  里穂は全身の力が抜けた。自分の夫は殺人犯ではなかった。涙が流れてきそうだった。  すると足を引き摺る男の影が見えた。  「どうゆうことだよ!」  黒丸と新田は声の方向に目を向ける。  誠が立っていた。  誠は手に花束を持っている。おそらく美緒の死んだ日曜日に花束を供えに来ているしい。  「ちょっと待ってくれよ! お前が姉さんの手を離した? なんで離したんだよ!」  誠はすごい勢いで黒丸の胸ぐらを掴む。  「手を離さなかったら姉さん死なずに済んだってことかよ! なんで死なせたんだよ!」  「……すまない。俺が全部悪い。俺今死ぬからさ! もう俺を解放させてくれ!」  「ふざけんなよ! 逃げる気か!」  誠は黒丸を押し倒し、黒丸を必死に殴った。里穂はその光景を見て助けに行こうか迷ったが、見届けることにした。過去に関わっていない里穂は見届けるしかなかった。  「望み通り解放させてやるよ! 俺が今お前を殺す!」  誠が黒丸の首を両手で掴み、力を入れる。黒丸はもがき始める。  実際に死が近づいてしまうと恐怖が心を支配した。  「待てよ!」  誠は手を離し、声の方に目を向ける。新田が屋上の端に立っていた。  「奏介! 思い出せよ! 美緒が死ぬ直前の顔を!」  黒丸は思い出してしまった。落ちていく美緒は笑顔だった。  「美緒は俺らのことを恨んでなんかねーよ! むしろ感謝してたんだよ! 自分を解放させてくれてありがとうって!」  「……でも、俺は!」  さっきまで首を絞められていたせいか声がうまく出ない。  「確かに自殺は良くないことだ。でもあの時美緒を無理矢理生かすことが本当に美緒のためになんのか?」  「お前が決めるな!」  誠は声を荒げる。  「奏介! 過去の自分から抜け出せ! お前はもう自分を責めなくていい!」  新田はそう言って身体を後ろに倒していった。    黒丸はすぐに新田の方へ走っていき、新田の腕を掴む。間に合った。  「死なせない! もう二度と!」  宙吊りになっている新田の腕を必死に掴む。誠も急いで黒丸の方へ行き、新田の腕を掴む。  「罪を償え!」  「もう二度と同じ過ちは繰り返さない! 絶対にお前を死なせない!」  黒丸と誠は全身の力を入れて新田の腕を離さない。  徐々に新田の身体は上に上がっていく。必死な二人を前にして、新田は笑みを浮かべていた。  新田は屋上の上に引っ張られた。黒丸と誠は息切れが止まらなかった。  「奏介。もう自分を許してやったらどうだ?」  新田の言う通り、黒丸からは罪の意識が消えていた。  「……でも俺、俺どうしたらいいのかな」  「過去は振り返るなよ。少なくとも美緒は恨んでないし、考え方を変えろ。」  「考え方……?」  「お前は美緒を殺したんじゃない。美緒の自殺を止められなかったんだ。でもお前は今俺の自殺を止めた。前に進んだんだよ!」  黒丸からは涙が溢れていた。  「もう俺自分のこと許していいのかな?」  「ああ。いいんだ、許してやれ。」  「許せるはずがないだろ!」  抱き合っている黒丸と新田に誠は怒る。  「一生罪と向き合ってろよ! 俺はお前らを許さない!」  誠が拳を振り上げようとした時、里穂が割って入ってきた。  「夫には一生私が罪を償わせます。だから、もう夫を許してあげて!」  里穂は誠に頭を下げる。頭は地面についていた。黒丸も里穂の姿を見て自分も地面に頭をつける。  「本当にごめんなさい。許して下さい。」  二人に土下座され、そのうち一人が妊娠していることもあり、誠はバツが悪くなり、花束を屋上に投げて去っていった。  「奏介。いい嫁を持ったな。」  里穂と黒丸は頭を上げる。そして黒丸は里穂に頭を下げる。  「ごめん。今まで里穂と真剣に向き合うことを避けてきた。でもこれからは里穂と真剣に向き合う。そしてその子にも真剣に向き合う。だからこれからも隣にいてくれ!」  今まではプロポーズも全部里穂からだったが、黒丸は里穂に改めて自分からプロポーズをする。 里穂はその言葉をずっと待っていた。里穂からも涙が溢れる。  「……うん!」  いつの間にか雨は止んでおり、雲の隙間から朝陽が見える。  黒丸はもう迷わない。逃げもしない。過去と別れを告げて里穂と共に新しい人生をスタートさせた。  ショッピングモールから出た奏介と里穂と新田は朝日を見上げる。まるで新しい三人の門出を祝っているような、そんな色だった。  昨日新田が言っていたことを思い出す。  「明日ここに来いよ。俺がお前を殺してやるよ。ここでな。」  新田は本当に奏介を殺してくれた。今までの過去の自分を。  奏介と里穂は実家に戻り、荷物をまとめて村を後にすることにした。明日からまた仕事が始まる。  実家を後にし、バスに乗って駅に向かう。里穂は疲れたのか隣で眠りについていた。  バスから降りて切符を買い、改札に向かうと、新田がいた。  「お前も新しい人生を歩み始めたことだし、俺も歩き始めないとな。」  「これからどうすんだ?」  「警察に自首するよ。刑務所でクスリ抜いてくるわ」  「そっか、またいつか会おうな。」  「ああ。」  奏介と里穂は改札を通る。里穂は新田に会釈をした。二人の姿が見えなくなるまで新田は手を振り続けた。  「良かったよ。奏介結局人殺してなくて。」  帰りの電車で里穂は呟いた。奏介は笑いながら答える。  「もうそう思わないようにするって決めた。」  奏介の吹っ切れた笑顔を見て、里穂は奏介の手を繋ぐ。  二人は電車に揺られながら、家に戻っていった。
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