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一年前
まだ六月になったばかりなのに、雨が連日振り続け、ニュースでは梅雨シーズンを迎えたと報道されている。周りが皆傘を持っている。黒丸奏介も例外ではない。黒丸も紺の傘を持って事務所に向かっている。
黒丸は家を出る際傘を持って行こうとしなかったが、妻の黒丸里穂に半ば強引に傘を持っていく事を促され、渋々持っていくことにした。
黒丸は面倒ごとが嫌いで、里穂の一度決めたことは曲げない信念の強さを知っていて、持っていかないと言ったところでどうせ持っていくことになることが分かっていた。なので、抵抗しても無意味な事を知っていた。
結婚を里穂から提案された時も最初は彼女を幸せにできないと思い断ったが、それからも里穂は諦めずに何回も結婚を迫り、一ヶ月後には黒丸が折れ、交際0日で結婚することになった。結婚後も黒丸は逆らわず、常に里穂に尽くしてきた。
黒丸は事務所の鍵を開け、中に入る。中には誰もいない。黒丸は一人自分の机の前に行き、そっと座る。
黒丸は25歳にして司法試験に合格するも、大手の弁護士事務所から採用されず、今の小さい成田法律事務所で働くことになった。小さいが故に仕事がなかなか入らず、1日中パソコンと向き合っている日もある。
扉が開き、成田慶が出勤してきた。親の成田大輔が築いた成田法律事務所に成田は入社。大輔が亡くなった後事務所のオーナーにもなったが、慶自体どこも採用されず仕方なく親の事務所に入った人間なので、事務所の繁盛を気にしていない。上司がこの体たらくなので、黒丸も仕事がなくても危機感を持っていなかった。
「今日いつもより遅いですね。」
「そうかなぁ、家出てから雨が降ってきたからコンビニでビニール傘買っていたからかな」
黒丸と慶は何気ない会話を交わし、各々暇な時間に向き合う。
暇地獄から解放され、黒丸が家に帰っているとスマホから通知音が鳴り、見るとそこには里穂から「帰りにポテトチップスを買ってきて」と送られてきていた。最近里穂はよくポテトチップスを食べる。体重を気にしなくていいのかと思ったが、黒丸は言葉を呑んだ。小言を言っても無意味だと思ったからだ。
コンビニでポテトチップスを買って、帰ろうとすると、コンビニの裏から声がした。本来なら声がしても何も思わないのだが、その声は聞き慣れた言葉を発していた。
「もうやめて……」
黒丸は裏に行き、歩きながら遠目で様子を伺う。男子中学生が三人。朝出勤中によく見る制服を着ていた。中学校の名前も把握していた。
その内一人は涙を目に蓄えながら、あとの二人が持っている自分のものであろう体操着の入った袋を必死に取り返そうとしている。
いじめ。黒丸はすぐに理解した。
二人は面白半分で彼の反応を楽しんでいるだろうが、彼は何も楽しそうではなかった。嫌がっていた。
どこの中学かは分かるので黒丸が出ていって学校に連絡することも可能であり、そもそも黒丸のスーツについてる弁護士バッチを見せれば連絡などしなくてもすぐに辞めるだろう。だが、黒丸は歩くのを止めず、三人の横を通り、後ろを振り返ることもせず、家に向かった。
家に帰って、里穂にポテトチップスを渡し、里穂の作った夕食を食べた。食べている時向かい側でポテトチップスを食べながら里穂は黒丸に話しかける。里穂は黒丸と結婚してから会社を辞め、主婦をしている。家にずっといるので話す内容もテレビの話ばかりだ。黒丸は相槌を打ち、適度に質問を交え、夕食を食べる。そして湯船に浸かり、ベッドに入りいつもの1日を終える。
ベッドに入りながら中学生三人のことを思い出した。後悔はしていた。足を止めなかったこと。止めに行かなかったこと。
そして思い出す。もう一つの三人のこと。
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