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三
しとしと降る弱い雨。
辺り一面をびっしりと覆い尽くしている彼岸花。雨に濡れ、赤色が妖しく輝く。
その中に佇む、俺が愛した女性の儚げな後ろ姿。肌色が滲んだ白いワンピースに、肩のあたりで切り揃えられた黒髪。
咲乃……。
俺は一歩、彼岸花畑に踏み入る。花の折れる感触が足元から全身に伝わり、なにか罪悪感めいたものから一斉に鳥肌が立った。
咲乃は振り返らない。彼女はどんな表情を浮かべているのだろう? 悲しんでいるのか? 笑っているのか?
彼女は一体、なにを思っている?
俺は彼女に近づいていく。その距離が縮まるにつれ、俺の息も詰まっていく。
もう、手が届きそうだ。伸ばせば、触れられる。
咲乃……。名前を呼び、俺は片手をその小さな肩に向けて……。
すると咲乃の首が、わずかに動いた。ゆっくりと、徐々に徐々に、彼女は振り返ろうとしている。
しかし次の瞬間、あと少しで顔が見えるところまで来ていたのに、彼女も彼岸花畑も霧消してしまった。
残されたのは俺の手と、その先の天井。
「――っ!」
俺は勢い良く身を起こした。
憶えている。まだ憶えている。
夢の中の咲乃は、振り返りかけていた。
今まではなかったことだ。そんな兆しすら、彼女は見せなかった。なのについ今しがた、確かに俺を見ようとしていた。寸前まできていた。寸前まできていたのに……。
「……ああ」
溜息を吐き、項垂れる。まだ駄目なのだ。咲乃が振り返ってくれるまでには、まだ足りないのだ。だが、前進はした。何度も同じ繰り返しだったのが、此処に来て変化を見せた。微かながら、大きな変化だ。
此処……そうだ、俺は咲乃を求めて彼女が行方不明となった山に這入り、そこで遭難し、果てにこの屋敷に辿り着いたのだった。
彼岸邸……花帯さんはこの屋敷をそう云っていた。彼岸……彼岸花……偶然だろうか?
見回すと、朝になっていた。後ろから障子を透かして明るい光が入ってきている。
俺は布団から脱し、障子を開けてみた。すると硝子窓になっていて、外には中庭が広がっていた。前方……それから左側には中庭に面した廊下が見えており、右側はずっと壁になっている……その真ん中あたりには、玄関から見えたあの丸窓があった。中庭は四方を囲まれているというわけだ。
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