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女性は軽く頭を下げ、また廊下を戻っていった。挙動のひとつひとつが洗練されている印象だ。旅館の若女将という言葉が浮かんだが、しかし此処は少なくとも旅館というふうではない。……どうしてあんなに若くて綺麗な人が、こんなところで暮らしているのだろうか。
しばらく待っていると女性が戻ってきて、手拭いを渡してくれた。着替えは腰巻と肌襦袢、それから女性が着ているのと同じ長襦袢だった。
女性はなにも云わずに床の上に正座すると、反対側を向いた。その意図を察し、俺は少々気恥ずかしさを覚えながらも衣服を脱いで身体を拭き、着替えた。
それにしてもこの時代に腰巻とは……。履き心地は決して良いとは云えないのだが、きっとこれしかないのだろう。文句を云ってはいられない。身体を拭いてみるとあちこちに擦り傷や切り傷、腫れている箇所があると分かったが、血も止まっていたので、これについても黙っていることにした。あまり次から次に注文するのは気が引ける。
「ありがとうございます。上がってもいいですか?」
女性は振り返ると「もちろんです。どうぞ」と云いつつ立ち上がった。俺は脱いだ衣服と手拭いをまとめて抱え、裸足で板張りの床に上がる。すると入れ違いに、女性が草履を履いて土間に下りた。どうしたのかと思って見ていると、彼女は玄関戸を開けて外の様子を窺った。そこで俺は納得する。彼女はあの菩提樹が倒れるのを見たか、そうでなくともそれに気付いて玄関まで来たのだ。とすると、俺の姿を見てなんの動揺もなかったのが不思議だが……。
「俺が門をくぐった直後に、あの木に雷が落ちたみたいで、その惨状に……」
「そうですか」
女性は門が菩提樹の下敷きになって潰れているのを見ても動じなかった。未練がましい様子も見せずに戸を閉め、「こちらへどうぞ」と云って俺の前を歩き始める。俺はどこか不可解に感じつつも、その後に続いた。
「あの……貴女の名前は、なんと云うんですか?」
女性は歩みを止めないまま「花帯と申します」と答えた。
「花帯さんは、此処に住んでいるんですよね」
「ええ」
「此処は花帯さんの実家……なんですか?」
「いいえ、此処は〈彼岸邸〉です」
「彼岸邸……?」
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