左腕

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 巨大な水槽の中でイワシの群れがうずを巻くようにして泳いでいる。 「あざやかね」  とお母さんが言い、 「そうだな」  とお父さんが言った。  お母さんは大の水族館好きで、何度通っても飽きないわ、素敵だわ、とテンションが高くなっている様子なのだけど、お父さんは全く興味無さそうだった。仕方なく付き合ってやっている、という態度で、しかもそれを隠そうとしていない。  休日に水族館に来るのは、僕もこれで十三度目くらいになる。高速道路を使って一時間半かかる場所だった。僕はここ以外の水族館を知らないのだけど、お母さんいわく一般的な水族館よりも大きいらしい。  大きな水槽にいろんな魚が泳いでいる。また、僕の家のテレビくらいの大きさしかない小ぶりな水槽が並んでいるエリアもあって、ザリガニがいたり、ヒトデがいたり、なんだかよくわからない貝がいたりする。それぞれの水槽の脇には、その水槽の中にいる生き物の説明が書かれたプレートが張り付けられている。  ヒトデが入っている横の水槽に、イソギンチャクがいた。二匹、と呼んでいいのかわからないけど、うねうねと動く触手のかたまりのようなものが二つあった。  その二かたまりの間に、明らかに不自然な物体があることを僕は発見した。初めは見間違いかと思ったけどそうではなかった。二かたまりの間にあるのは、左腕だった。生白い、女の人のもの思われる左腕が、水の中、地面から生えるようにして真っ直ぐ伸びていて、手はパーの形をしている。 「ねえ、お母さん、なんで左腕があるんだろう?」 「どこ?」  お母さんが不思議そうに水槽の中を見つめる。 「ねえ、お父さん、あそこに左腕があるよね?」 「なに言ってるんだ」  お父さんは一瞬まゆをピクッと動かした後、少し強い口調になりながらも、左腕のことは見えていないようだった。  他の客も、イソギンチャクのいる水槽の前に立ちどまると、へー、ふーん、みたいな感じで眺めるだけで、特別な反応はせず去って行った。  あの左腕は、僕以外には見えないのか、あんなにはっきり見えるのに。僕が不思議に思ってその肘から下が埋まっているような状態の左腕を眺めていると、その左腕の人差し指と中指以外の指が内側に折れ曲がった。つまり、ピース、の形を作ったのだった。  あの左腕は僕だけにしか見えず、またおもちゃや置き物とかではなくて意志を持っているということがわかった。ピースを作っているけど、それが僕に向けたピースなのか、それとも水槽の正面に立っているので僕に向けているように見えるだけなのか、それはわからない。  ピースをしたかと思うと、今度は人差し指だけを地面に垂直にしてピンッと伸ばした。左腕が指さした方には何もなかった。正確に言うと、非常扉だけがある。 「おい太一、そろそろ行くぞ」  お父さんから呼ばれたため、僕はその左腕が入っている水槽を後にした。  もちろんのこと、その後はどんな魚を見ても、ペンギンを見ても、イルカショーを見ても楽しめなかった。頭の中は、水槽の中に左腕があるという異様な光景でいっぱいだった。  そろそろ帰る時間になった頃に僕がアッと声を上げたのは、水族館の出口の辺りにも左腕がいたからだった。さっきと同じように、地面から生えているような状態の左腕は、まるで僕の帰りをそこでずっと待っていたかのようだった。 「なに、どうしたの?」 「あそこに、左腕が。しかも、またピースしてる」 「からかってるの」  とお母さんは少し不機嫌そうな表情になりながら僕を見る。お父さんには僕たちの会話は聞こえていないようで、さっさと駐車場の方に向かって歩いていった。 「でも、」  確かに左腕が見えるんだ、と言いかけて結局やめたのは、歩いていくお父さんとはぐれるかもしれないと思ったからだ。  左腕はまた、さっきと同じ方向へ自分の人差し指を向けていた。  ほとんど日の当たるところには出ず、またほとんど運動らしい運動をしたことのないような、白い、細い腕に思える。小さな子どもの腕ではなく、またそこまで年齢のいっている腕とも思えないので、高校生以上、三十歳未満くらいの人の腕だろうか。  僕たちは帰り道の高速道路に乗っていた。お父さんは運転席でずっと黙っていて、お母さんも助手席でずっと黙っているので、僕も口を開かなかった。車の中は音楽やラジオもかかっていなくて、ずっと無音だった。  お父さんはハンサムで、お母さんは不細工だった。そんな二人から生まれたので、僕は平均的な見た目をしている。  いつからか、仲の良かったはずのお父さんとお母さんは、あまり会話をしなくなったように思える。お母さんは前と変わりないように思えるけど、お父さんの態度がどこか素っ気ない。お父さんが冷たくなり始めたのは、お母さんが腕に火傷をおったような日からのような気がする。  それはほとんど僕のせいだった。お母さんが夕飯を作っているところを、横に立ってただ眺めていた。今から四年前で、僕が小学二年生の頃だった。その頃の僕は暇なときなどにお母さんの家事を横に立って眺めることにしていた。そして、たまにちょっかいをかけてお母さんを困らせることにハマっていた。  揚げ物をするための油が入った鍋を、お母さんが手に持った。僕はその時、悪ふざけでお母さんの脇腹を指で小突いた。「うぐうっ」と声をあげたお母さんは、手に持った油を一瞬手放してしまった。すると油がかかりそうになった僕をお母さんは慌てて突き飛ばして、その代わりに自分の両腕に大量の油を浴びたのだった。  その後はすぐにお父さんが、腰をぶつけて動けなくなっている僕には目もくれず、病院にお母さんを連れて行った。皮ふがだらだらにめくれて、酷い状態になっていたらしい。火傷が治っても、あとは永遠に残るだろうと医者からは言われたという。いろんな大きさの茶色いあざみたいなものがお母さんの腕にはまだはっきりと残っていて、火傷をしてからは夏でも長袖を着るようになった。  腕に包帯をまきながら病院から帰ってきた時、お母さんは「もうちょっかいかけるのはやめなさい」と僕に言ったけど、そこまで落ち込んでいたり悲しんでいたりする様子はなかった。反対にお父さんは、死んだ魚の目のようになっていた。  そしてその出来事のあとくらいから、お父さんはお母さんに対して冷たい態度をとるようになっている気がして、それがなぜなのか僕にはわからなかった。僕の横で不用意に油の入った鍋を持ったことを怒っているのだろうか。いや、それだけで態度を急激に変えるとは思えない。何か僕にはわからない理由でもあるのだろうか。  お母さんは特に左腕に大きな火傷あとが残っている。僕がさっき水族館で見たのも左腕だったな、なんてことを考えながらサービスエリアのトイレに入った。  おしっこをしてトイレから出ようとすると、男子便所の出入り口の辺りに、また左腕がいた。明らかにさっき見たのと同じ生白い腕で、しかもまたピースをしていた。「アッ」と思わず声を上げてしまう。 「なんだ、どうしたんだ?」  僕の後ろにいたお父さんが聞いてくる。 「お父さん、あれ」  僕が左腕の方を指さすと、 「なにもないじゃないか」  とお父さんは不思議そうに呟く。  やっぱり僕にしか見えていない。  車に戻ると、なんと後部座席に左腕が座っていた。座っていた、という言い方は変かもしれないけど、シートからまっすぐ生えている。あなたをここで待っていたわ、とでも言うように、やはりピースを僕へ向けていた。  僕は左腕の隣に座るのなんて嫌だったけど、子ども一人でここから家に帰る方法を知らなかった。だからこの車に乗っていかないと、一生このサービスエリアに留まるはめになるかもしれない。  車が走り出すと、音のない車の中で、左腕がピンッと人差し指を向けた。指さした方向は、車の進行方向と同じだった。 「どうしたの? 酔っちゃった?」  僕の顔色が悪くなっていることに気づいたのか、助手席からお母さんが、僕の顔を覗き込むようにして聞いてくる。酔っているわけではなくて、左腕とドライブしているという今の状況のせいで気分が悪くなっているのだけど、それを言っても、からかっているのか、とか、頭がおかしくなったのか、と疑われるかもしれないので、 「うん。ちょっと酔ったみたい」  と、車酔いしていることにした。 「車酔いした時はね、遠くを見るといいのよ」  お母さんがそう言ったので、僕は後部座席の窓から外を眺めることにした。そうすれば左腕を見なくてすむ。遠くに、緑の三角の山がいくつか連なっていて、ところどころに雲がかかっていた。今日は一日晴れ予報だったような気がするけど、少し黒っぽい雲が増えてきている。  僕が外を見ている間に消えていてくれ、そうして二度と僕の前に現れないでくれ。左腕に対してそう願っていると、僕の太ももに、スーッと指でなぞられるような感触がして、 「ひょわっ」  と出したことのない声を上げていた。 「なに?」  とお母さんが振り向いてきて、僕は「なんでもないよ」と言うしかなかった。  左腕が、さっきまで前をさし続けていた人差し指で、僕の太ももを触っているようだった。それは何か線を描いているようで、くすぐったく気持ち悪いのだけど、あまりに恐ろしくて体を動かすことができなかった。  頭の中もほとんどかたまったような状態になっていたので初めはよくわからなかったけど、左腕が文字を書いているということが段々とわかってきた。画数が少ないのでひらがなだと僕は思った。左腕がなにを書いているのか確かめるために、全神経を左太ももに集中させてみる。四文字を、繰り返し書いているようだ。  一文字目は「た」二文字目は「す」三文字目は「け」四文字目は「て」だった。それを続けると「たすけて」になる。
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