左腕

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 左腕と聞いて思い浮かぶ事件が、そういえば最近あった。バラバラ殺人事件。こんな田舎の町にこんな恐ろしくて残酷な事件が起こるのかと僕はびっくりし、学校へ行ってもみんなその話題で持ちきりになっていた。不審者や熊の目撃情報があったから気を付けるようにと学校から注意されたことは何度かあったけど、恐ろしい殺人犯が潜んでいるかもしれないから気を付けるように、と言われたのはその時が初めてだった。事件の後は近所の小学生七、八人くらいが集まって登下校しないといけなくなり、それが今も続いている。  殺されたのは帰省中の女子大生で、第一発見者は僕のクラスメイトのお兄ちゃんの友達だったらしい。そういう噂は、田舎の町だとすぐに広まるみたいだ。  クラスメイトのお兄ちゃんの友達は高校一年生で、学校帰りにおしっこを我慢できなくなって近くの茂みに入った。そこで、切断された右腕を見つけた。ズボンを下ろしてから見つけたのがせめてもの救いで、もしもズボンを下ろす前に見つけたのだったら、おしっこでパンツやズボンが濡れてしまっただろうと言っていたみたいだ。  噂なのでおしっこの話しは嘘かもしれず、もしかしたらショックでパンツを下ろす前に漏らしたのかもしれないけど、とにかく数週間前に謎の右腕が見つかったのは確かだった。その時は誰の右腕なのかわからなかったけど、そのあとすぐに別の場所で別の人が、頭、胴体、右足、左足を見つけてその女子大生だと判明したのだった。  そして不思議なことに、いくら警察や女子大生の家族が探しても、左腕だけが見つかっていない。左腕以外のパーツは発見が難しい場所に隠されていたわけではないのにどうして左腕だけが見つからないのだろう、とみんな不思議に思っているようだった。犯人も未だに見つかっていなくてもう遠くへ逃げたのではないか、と僕は思っている。  見つかっていないのは左腕で、いま僕の横にいるのも左腕だ。これはもしかして、その見つかっていない女子大生の左腕なのではだろうか、と僕は考えたが、すぐにそんなことはないと自分で自分の思い付きを否定した。切断された左腕がどうして僕の前にたびたび現れて、しかもなんで僕にしか見えないんだ。これはきっと僕の悪い夢か、幻覚か、そういうものに違いない。僕は自分にそう言い聞かせることにした。  「たすけて」と書いたことが僕に伝わったことを察したのか、左腕はもう僕の太ももはなぞらなくなり、ひたすらに前方をまた指さしている。  この左腕は現実には存在しない何かだ、と自分に思い込ませることで、僕は左腕をしっかり見られるようになった。傷やあざのない、白い細い腕を見ていると、なんだかドキドキしてきた。これは恐ろしいと感じているせいで起こるドキドキではなくて、別のドキドキのように思えた。初めてのドキドキを感じながら、気付けばさっきまで恐れていた左腕に見入っている。完璧、というのはこれのことじゃないだろうか。肘から下は見えないが、きっと美しいのだろうと想像できる。マニュキアとかは塗っていない自然な爪も上品に光って見えるし、指も細くて長くて、手首も丁度いい感じでしまっていて、腕に薄っすらと浮き出ている血管さえも綺麗だった。 「帰りにスーパーに寄ってもいい?」  お母さんがお父さんに言う。  お父さんは返事をせず、黙ったままでお母さんに言われた通りスーパーの駐車場に入っていった。お父さんの舌打ちの音が、僕の耳にはっきりと聞こえた。 「お母さんはちょっと買い物してすぐに戻ってくるけど、太一はどうする? お菓子でも買ってくる?」 「車にいるよ」  僕がそう言うと、長袖を着たお母さんは車を降りてスーパーの入口へ歩いて向かっていった。  お父さんも車に残り、貧乏ゆすりをしながらお母さんが戻って来るのを待っている。あの野郎、ちくしょう、ボケが、と小声でぶつぶつ言っている。  車を車庫に停めると、助手席の左腕はまっすぐ僕たちの家を指さした。もしかして左腕はずっと僕たちの家を指さしていたのだろうか。だとしたら、なぜ? 左腕は僕に対してたすけて欲しいと思っていて、そしてずっと僕の家を指さしていたのだとしたら、ここに左腕に関する何かがあるということなのだろうか。  車から降りて玄関の扉を開けると、そこにまた左腕が待っていた。相変わらず肘から下が埋まっているような状態で、僕にピースを向ける。このピースは明らかに僕に向けているものだった。私には意志があるのです、私にちゃんと気づいてください、と訴えかけているのかもしれない。だんだんと、やっぱり左腕は現実に存在する何かで僕へ必死に助けを求めているのかしれない、と思い始める。  僕の家は玄関の右手にトイレや風呂場があって、左手には廊下が伸びていてその奥にリビングがある。玄関の正面には二階に上がるための階段があって、左腕はそっちの方を指さした。  あっちに行け、と僕を誘導させようとしているような気がして、二階に上がってみると、いつの間にか階段の上へ移動していた左腕が物置部屋の方をさしていた。  僕には用事がないので、これまで物置部屋に入ったことはほとんどなかった。お母さんはモノをあまり捨てない主義らしくて、古くなった本や服や家具とかをその十帖くらいのスペースに詰め込んでいる。  久しぶりに、物置部屋に入ってみた。きちんと整頓して置かれているけど、ここにあるものはほとんどが不要になったゴミ同然のものだった。奥の方に押し入れがあって、壊れた電子レンジの上にいつの間にか生えていた左腕が、そっちをさしていた。  いろんなものが詰まれているけど、中央には辛うじて人ひとりが通れるスペースが確保されているので、僕はそこを通って押し入れの前までいった。両開きになっている扉を開くと、中にはなんでこんなにもあるんだと不思議に思うほど布団類が詰め込まれていた。さっき左腕は押し入れの上の方を指さしていたので、上を見てみると、天井に家のテレビより少し大きいくらいの四角い線が入っていた。もしかしてあれは取り外しのできる板のようになっていて、外すと屋根裏部屋に行けるんではないか、と直感で僕はそう思った。  押し入れの中にある布団類は階段のような段差ができていて、よじ登れそうだなと思ってよじ登ってみると、驚くくらいに簡単に上までいくことができた。そして四角い線の真ん中を下から押してみると、スコッと音をたてながらそれは外れて、やっぱり屋根裏部屋へ通じていたみたいだ。この家に屋根裏部屋があるということを僕は初めて知った。  覗いてみると真っ暗だったので、懐中電灯を持ってこようと思った。確か一回の廊下の壁にくぎのようなものが刺さっていて、そこに災害時用の懐中電灯がぶら下げてあったはずだった。僕はそれを持ってから、また物置部屋へ戻った。  左腕はまだ電子レンジの上から生えていて、ピンッと張った人差し指で押し入れの天井の方、つまり屋根裏部屋の方をさしている。不思議と、そこへ行って欲しい、と左腕が強く願っているということが僕にはわかった。再び布団類を使ってよじ登って、屋根裏部屋へと入った。  少しかび臭いような気がする。いつの間にか雨が降ってきていたようで、ここにいると屋根に当たる雨の粒の音がはっきりと聞こえてきた。  懐中電灯で照らしてみると、水槽のようなものが端の方にあるのを見つけた。近づいてみると、透明の水槽に何やら薄い緑色の液体が入っている。緑色の液体に、何かが浸してある。初めは見間違いかと思ったがそうではなかった。水槽の中にあるのは、左腕だった。それはあの僕にしか見えない左腕と、同じ左腕だった。 「それは最近バラバラ殺人事件で話題になっていた女子大生の左腕だよ。そしてその液体は、左腕が腐るのを防ぐためのものだよ」  背後から声が聞こえたため、振り返って懐中電灯の光を向けてみると、照らされたのはお父さんだった。雨の音のせいで近くまで来ていたことに気づかなかったようだ。 「姿が見えないからもしやと思っていたが、こんなところにいたのか」 「お父さんが、殺したの?」  泣きながら、僕は聞いた。 「お父さんが殺したんだ」  お父さんは冷静に答えた。 「どうして?」 「腕が綺麗だったからだ」  僕の頭の中は、混乱していた。  お父さんは、冷静な態度のままで続ける。 「お父さんはな、腕が好きなんだ。お前にはまだわからないかもしれないが、綺麗な腕を見ると性的に興奮するんだ。だから、顔が不細工でも腕が綺麗だったあの女と結婚した。だがあの火傷以来、腕の美しさを失い、それは俺にとって全てを失ったのと同じことなんだ。お前のせいだぞ!」  急に大声を出したので、驚いて体がビクッとしてしまう。 「俺はずっと綺麗な腕だけを求めて生きてきた。でもそれを失って死んだような気分になっている時、見かけた女子大生の腕があまりに綺麗だったから、しかもひと気のないところを通ってたもんだから、勢いでつい殺してしまったんだ」  僕のパンツが濡れだしたのは、お父さんが右手に包丁を持っているのがわかったからだ。腰が抜けそうになったけど、恐怖のあまり体が固まっているせいで腰が引けた変な体勢のまま僕は動けなくなった。 「あとは体を運びやすくするためにバラバラに切断して、左腕は持ち帰り、それ以外はその辺りに捨てた。変に隠したりせず、指紋だけ拭き取っててきとうな場所に捨てた方が足がつきにくいということを、俺は知ってるんだ。これが、いまこの町で話題になっているバラバラ殺人の真実さ」  お父さんが、ゆっくりとにじり寄ってくる。いま大声を出しても、お母さんには届かないだろう。それくらい、雨の音が大きくなっていた。 「お父さんは、僕を殺すつもりなの?」 「殺すよ。だって人殺しがばれて警察に捕まったら、もう左腕を愛せなくなるだろう? 俺は毎晩、夜中にここへ来て左腕を愛してたんだ。お前は切り刻んで埋めて、家出だと思わせることにするよ」  僕は恐ろしくて何も言えなくなった。  お父さんは目を血走らせながら、歯をイーッと食いしばり、僕に勢いよく襲いかかってきた。すると暗闇のせいでつまずいたのか、そのまま正面に倒れ込むように転んだ。そしていつの間にか僕の足元の辺りでピースしていた左腕の、立っている人差し指と中指が、倒れ込むお父さんの両目にちょうど突き刺さった。  その時のお父さんの地獄のような叫び声は、いつまでも耳に残った。  それからお父さんは目が完全に見えなくなって、恐らくもう二度と綺麗な腕を拝めなくなり絶望していることだろう。今の状態では、押し入れをよじ登って屋根裏部屋へ行くことさえ難しいはずだ。  お父さんが病院で両目が潰れた理由をなんて説明したのか僕は知らない。なんとかてきとうな理由をつけて誤魔化したのだろう。さすがに今回の事故とバラバラ殺人とは結び付かなかったみたいだ。僕は、お母さんにも友達にも警察にも、お父さんの犯したことや屋根裏部屋に今でもいる左腕のことは言わなかった。  お父さんはあれから、常にビクビクしながら生活しているように見える。また、どうして僕がお父さんがバラバラ殺人事件の犯人だとばらさないか疑問に思っていることだろう。  あの僕にしか見えない左腕はもう、僕の前には現れなくなった。きっとあの左腕はお父さんに愛されるのが嫌で、自分の幻を作って僕へ助けを求めていたのだと思う。僕が助けないとわかったから、恐らく現れなくなったのだ。お父さんの両目にピースが突き刺さった時は驚いたけど、僕はそのおかげで命を無事守ることができていた。  僕は誰も屋根裏部屋へたどり着けないよう、数々のトラップを仕掛けた。特殊な手順を踏んで上らないと、ナイフが上から落下してきたり、布団が燃えたりするような仕掛けだ。その仕掛けを完成させるまでにためていたお小遣いは全部使ったし、三か月もかかった。  僕は毎晩、屋根裏部屋へ行ってお父さんの代わりに左腕を愛してあげるようになった。液体を綺麗に拭き取ってから、冷たくて硬くなっている左腕をさすってあげる。とにかくしつこいくらい、まんべんなく舐めもした。  お父さんが綺麗な腕を見ると性的に興奮する、と言っていた意味が僕にはわかった気がしていた。左腕を眺めながら、僕は自分の硬くなったアソコをさすった。
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