1.イイヒト

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 気が付けば、教室の雰囲気は元の賑やかさを取り戻していた。誰も彼も、まるで僕の存在を忘れてしまったかのように振舞っている。  ——なんだ。  屋上へ行く必要はなかったようだ。  人の噂も何とやら。他人への興味なんてこんなものなのかもしれない。  再び席に着き、残りの時間はスマホにダウンロードしてある音楽を聴くことにした。耳に入るイヤホンがひんやりと冷たい。  机に伏せて、外界との繋がりをシャットアウトする。  聞こえるのは、特に好きというわけでもない最近の流行りの楽曲。興味があるでもないから、歌詞どころか歌手も曲名すらも憶えていない。  腕の隙間から漏れる僅かな光に照らされた机の板を、ただぼうと眺めていた。机の匂いは、それほど不快ではなかった。  そうしてしばらく経った頃、音楽の向こうで予鈴の音が聞こえた気がした。  顔を上げてイヤホンを外すと、予鈴の残響が消えていくところだった。  直後、がらりと教室のドアが開いた。入ってきたのは、眼鏡をかけた若い女教師。レンズの奥の垂れ目は、整った顔と相性が良く、彼女の人格が温厚であると周知させている。  彼女の右手のカゴには、どうやら書類やファイルが入っているらしかった。  ——何先生だったっけ。  このクラスの担任の教師——ということは判る。名前を思い出せず、僕は僅かに首を傾げた。  それからすぐに、ああと思い至った。  小川(おがわ)先生だ。初登校の時に、確かそう名乗っていた気がする。  その時の僕は、もうすぐ死ぬんだだとか、どこで死んでみようかだとかを考えていて、今までに経験したことのないほどの期待感と緊張感で一杯で、自己紹介などまともに聞いていなかったのだ。  教師の入室に気付いた生徒がそそくさと席に着く。それが伝播するように残りの生徒もそれぞれ自らの席に戻った。  小川先生は教卓の前に立ち、細めた目で僕の席——正確には僕本人——を一瞥してから、誤魔化すように教室全体を見渡した。
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