1.イイヒト

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「おはようございます」  小川先生が徐に控えめなお辞儀をすると、生徒たちは各々の声色で不揃いな挨拶を返した。 「欠席は、ないようですね」  若さに似合わない落ち着いた口調で先生が言った。そして幸せに満ちた表情で、脇に挟んでいたクリップボードに何やら書き込むと、ぱたりと閉じて床のカゴに入れた。 「そろそろ高校の雰囲気に慣れたでしょうか。クラスメイトと仲良くできそうですか? 今ここにいるみなさんは、一年間、苦楽を共にする仲間です。立場は多少違いますが、私もその一員のつもりです」  小川先生は、一度視軸を窓の向こうの青空へ移し、すぐにまた教え子たちへと戻した。 「心配事や悩み事などがあれば、仲間に相談を。大人の力が必要なら、できる範囲で、私も協力します。決して」  一人で抱え込まないで下さいね——先生は眉尻を下げて言った。  その言葉は僕に向けて言ったのだ。小川先生は僕を一瞥したから、場にいる者全員がそう受け取ったに違いない。  ——クソ……。  こういうのは本当にやめてほしい。  居た堪れなくなって、視線を教卓の足元まで下げた。本当は外を見たかった。ぼうと外を眺めて、聞いていませんでした——そういう(てい)でいたかったのだけれど、生憎ここは廊下側。はめ殺しの窓はスモークガラスで、廊下の明暗しか判らない。 「ところで絹沢(きぬさわ)さん。委員会のメンバーは決まりそうですか?」  先生に尋ねられ、女子生徒の一人が「はい」と返事をした。  覚えのある声だった。 「図書委員には水無瀬くんが入ってくれるそうです」  先生は、そうですかと応えてゆるりと頷いた。 「水無瀬さん。ありがとうございます」  礼を言った小川先生が、僕に優しい笑みを向けた。  僕は何も応えずに目を逸らした。その態度が先生にどう受け取られたのかは、僕には判らない。  さて——と、先生が話題を変える。 「今日は課題テストです。簡単に言うなら、入学時の実力を測るためと、課題をやってきたかどうかを確認するためのものです」  テスト——その単語に、生徒たちから気怠げな声が漏れる。 「成績に全く影響がないわけではありませんが、気張り過ぎずに挑んで下さい」  それから——と、小川先生が連絡を続ける。 「これからオリエンテーションと部活動紹介があります。入部は必須ではないですが、部活動は心と体の成長はもちろん、交友関係を築く良いきっかけになります。ぜひ参加してみて下さい」  私からは以上ですと、先生は言葉を締めた。  すると丁度、黒板の上の色褪せたスピーカーから予鈴が鳴り響いた。 「ではまずはオリエンテーションです。体育館では整列して待機して下さい。クラス委員の絹沢さん、願いしますね」  はいという返事を確認して、先生はカゴを持って教室から出て行った。  ドアが閉められると、それが合図かのように生徒たちは一斉に会話を始める。
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