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真癒の章
真癒は早速、学業の合間を縫ってオーディションを受けることにした。毎週末毎週末、オーディションを受けたりワークショップに参加したりして、場数も知識も増やしていった。やはり簡単には受からないもので、オーディションの結果はそのほとんどが不合格で、通知さえ来ないものも少なくなかった。
だが真癒は何も、まだ不勉強な今すぐに受かろうとは思っていなかった。オーディション会場の独特の空気感、緊張感を肌で感じて慣れること。それからちゃんとしている人たちの技術を盗むことが、オーディションに挑む今のところの目的だった。
その日も真癒はオーディション会場にいた。周りは大手事務所から来ている人や、フリーだとしても元子役とか元劇団員とかの実績のある人ばかりだ。毎度のことながら不相応に感じて湧き上がる不安を深呼吸で落ち着かせ、真癒はじっと前の組の人たちを見つめる。
ふたりひと組でA4の紙1枚、約2分程度の芝居。その日の台本は恋人の別れのシーン。誰しもが普通の設定で普通にそこそこの演技をする。審査員はどこかつまらなさそうだ。時折、緊張のせいか酷い演技をしてしまった組にはしかめっ面を隠しもしない。今日の審査員はなかなか辛辣だ。
そんな中、審査員の表情を変えさせた人がいた。その人がひと言発した途端、「なにか起きる」という空気になった。これは大事なことで、この空気を作れる人じゃないとどこの会場でも審査員の表情を変えられない。それだけでなく、その人の演技は終始、台詞だけじゃなく役の内心のエネルギーまで感じる演技だった。この人は審査を通るだろう。
いよいよ真癒の番だ。演技の前の自己PRの時間だけは、何度経験しても慣れる気配すらない。異様に喉が渇き、手足は震えるし、目がじわりと潤んでいく。それでも真癒は、背中に隠した手を握り込んで、じっと審査員を見据えながら自己PRする。隣で組んでいる相手が心配そうな視線を向けていた。
「それじゃ、演技の方お願いします」
「はい」
「はいっ!」
何年付き合った相手か、相手のことをどれだけ好きだったのか、今はどうなのか、別れたいのか別れたくないのか。ここはどこで、周りにはどれくらい人がいるのか、どれくらい雑音があるのか。深呼吸をするうちにインストールする。再び目を開けた真癒の手足はもう震えていなかった。
――――
待ち合わせのカフェに重い足取りで辿り着いた茜(真癒)は、溜め息を吐いて扉を開ける。先に着いているはずの卓也を探す。スマホをいじっている姿を見つけると唇を結び、ゆっくりと近づいていく。
「お待たせ」
「……うん」
卓也は茜を一瞥してまたスマホに視線を戻した。茜(真癒)はそれに目を伏せて卓也の対面に腰を下ろす。机に置いた左手首を右手で掴みながら茜(真癒)が数秒の沈黙を破る。
「……それで、話って何」
卓也がスマホを置き、何度か口を開閉した後、顔を上げる。
「別れてほしい」
「わかった」
「え?」
言い終わるか終わらないかの速さで了承した茜(真癒)に、卓也は呆気にとられた表情で茜を見た。茜は掴んでいる左手首に爪を立てる。
「えって何。引き留めてほしかったの?それとも私が泣いて縋るとでも思ってた?」
「だって……」
「馬鹿にしないで。アンタが浮気したあの日に別れなかったのは、アンタが別れて欲しくなさそうだったから。私が、アンタに付き合ってあげてたの。……私だって、アンタがいなくても生きていける」
震える声を隠すように声を低くし、茜(真癒)は勢いよく立ち上がった。卓也に貰った指輪を外し、机に叩きつけるように置く。
「さよなら」
大股で去っていく茜(真癒)は扉を抜けた途端に溢れ出す涙を袖で拭いながら捌ける。残された卓也は茜の置いていった指輪を握り込んで祈るように目を伏せる。
――――
終わりの合図で審査員の前に並んだふたりを見ながら、審査員は小さく唸った。今すぐ売れっ子になれるかと言えば否だが、悪くない。建前の台詞がちゃんと建前だったし、動きが自然だった。残りの応募者次第ではこの審査を通してもいいだろう。手元の資料を見ながら審査員が口を開く。
「えーっと茜役の……浅香真癒さんか」
「っ、はい」
「悪くなかったよ」
「ありがとうございます」
真癒は話しかけられると思っておらず驚いて肩を跳ねさせた。返事をした声も僅かに上擦っていた。今までは話しかけられることさえなかった。一歩前進、と真癒の心の中の自分が小さくガッツポーズした。
「合否は追って連絡します。お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
今日のオーディションは終わった人から会場を出ていくことになっている。真癒は荷物を持って会場を後にした。
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