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祝膳
天候や近況など、通常初対面間でなされる会話がまるで想像できず、暮れた途方が限界に達する寸前、障子が敷居の上をすべらかに通る音が響いた。
「お待ちどおさま」
黒一色の空間のなか、発光するような白い光源が現れ、一人のおんなの頭を浮かび上がらせているような錯覚に陥る。
御魂では、と一瞬慄きそうになったが、すぐその下の首からの装い、彼女の美しい全体の姿が像を結ぶと、舞衣子は胸のうちがく、と恍惚めいたすぼまりを拍つのを感じた。
「御免なさいね。独りにして仕舞って」
ともに邸に入るまでは、春を想い起こさせる亜麻色の小花を散らしたシフォンワンピースだった。
それが今、夕餉を用意すると一言残して現れた姿は、この日本家屋にそぐわしいと讃する外ない、草紙から抜き出たような典雅の和装だった。
実家だと、着物の方が落ち着いて、と彼女は付け加えた。
黒の花柄の江戸小紋は、ともすればこの家屋の闇と一体化してしまう虞があるが、杞憂に終わる。
腰許は白印伝の花柄の染帯、黒と白のなかへ差し色のように紅梅色の帯で留められ、可憐さと季節を意識した若い鋭感が垣間見られるようだった。
「鞠園さん、素敵……。黒い着物なのに、全然暗くない」
「有難う。私には、この色しか武器がないのよ」
自身の胸元に掌を伏した、その甲、そして貌は、霞のような淡紅色を撒いた気もするが、まごうことのなき、白だ。
貌、躰、のみではない。髪も、その色のうちに含まれる。
白い貌。白い肌。
そして、蚕のはいた繭のように、白々とした髪の肩を覆う浪のようなうねり。
絹糸の睫毛から穿つ眼は、くすんだ灰白色のなかに薄縹を混ぜ込んだような複雑な色をなし、かつ虹彩は、その名の通り角度や光の加減で幾重にも色が発現するような、乱反射を時として起こす。
鮮らかな明彩を欠落させた、色素の希薄な容貌と体現。
鞠園汀は、そういった概念に、非日常な玲瓏さで人をいざなう。
「『汀』、で良いのよ。舞衣子さん」
汀は複数の食器が載せられた膳を両掌に乗せ、しずしずと舞衣子のもとへ歩んだ。
「貴女のお膳は、私が用意したかったの」
汀の手ずからという感激、そして思い出したような空腹を覚えた舞衣子は、思わず顔を綻ばせたが、目の前に置かれた一見美々しい器の中味を瞳に収めるうち、奇妙な違和感が染みるように湧いた。
「今日は……、何か御祝い事があるの……?」
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