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雨ごもり
昔から綺麗なものが好きだった。
小さい頃は人並みにお姫様。それが年を重ねるにつれ、少女の透明感、ずるさ、清廉なのにそこに匂い立つエロティックさを見つけ、愕然とその昂りを押さえつけるようになった。
男は、昔から嫌いだった。小学校の教室を出ようとして、何故か目の前で突然ズボンをずり下げて見せつけてきて、あの時の慄然は、成年を迎えた今でも胸のその痕を消してくれない。
それなのに母は、子供に教える題目のように舞衣子へ男を薦めてくる。
「まいちゃん、お金持ちなんかじゃなくて良いの。そこそこのお給金を持って来て、お酒も博打もやらない、優しいひとだったら、それだけでもう万々歳なのよ」
酒とギャンブルの酔いから醒めない父を見棄てた母は、確かに舞衣子を女手一つで育てくれた。
だが自身が叶えられなかった幻想、まっとうな男と結婚し、子を産み、家庭という塀に収まるという無味な判を、舞衣子に押そうとする力は強固だった。
息苦しかった。
そもそも、私の人生より、"私が希めているもの"を、貴女は知ろうともしない。
自分がどうしてこのような指向を持っているのか、そしてそれは人として欠陥、誤りではないのか、識りたかった。
進路は、生物的観点から、ひとの成り立ちを学べる大学だと自ずと決めた。
優しいが、二人羽織のようにして常にその影を感じてきた母の、反対を退けて一人の部屋で迎えた初めての夜の、解放感といったらなかった。
大学に入って初めての年明け。冷たい雨の午下りだった。
感染症の収束傾向に従い、今までリモートだったゼミの対面が開放されたのに、その日実際に教室へ来たのは舞衣子と伊佐の二人だけだった。
「あんなに皆と会いたいと言ってたのに、いざ蓋を開けたらこれで、本音がばれるよな」
ゼミが終わっても、伊佐からノートパソコンの電源を落とす仕種は見られなかった。
「リモートって、便利だよね。講義なら特に、接続さえすれば、マイクとカメラ切っても『居る』風を装えるんだから。……実際何人かひとが消えても、判らない気がする」
舞衣子は適当な相槌の微笑で応えた。男と密室に二人だけになった、直近の記憶が思い出せない。
「三次さんは、何でわざわざ学部違うこの講義取ったの? 『ヒトゲノム配列の理解・遺伝子発見とその周郭』。……これ結構医学系だよね。そっち進みたかったの?」
「そうじゃないんだけど……」
「興味あるんだ」
「うん……」
「どの辺に?」
自分が頗る、異性の歓心を惹かない姿勢をとっているのは承知していた。だのに伊佐は舞衣子から視線を外さない。
「今日初めてちゃんと見たから判ったけどさ、……三次さんて、物凄く手頸が細いんだな」
その手頸がびくと振れる。
心臓の産毛が逆立ってくるような悪寒。
伊佐の初めて知るような、別の生体の熱を感じる視線と体躯が近づいてくる気がして、堪らずぎゅうと掌を握った。
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