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しろく透明な共感
澱んだ室内に、白い光がふわりと現れて、広がるような感覚が射した。
「あら。開始時間、間違えたかしら」
音もなく開けられたドアから、鞠園汀が、濃紺のワンピースのためよりその白い容姿をしっとりと濡れているような質感を伴わせ、顔を覗かせた。
舞衣子と伊佐の不必要な接近と構図に、入室せずその透明な瞳が一瞬揺れをとめる。
「お邪魔だった様ね」
直ぐにふわりと弛む、薄紅のグロス。
伊佐が見当違いな椅子の後退する音を立てた。
「や、これは何も、」
早々に、哀れなほどの狼狽を見せて研究室から遁走していく。
伊佐とすれ違った汀は、戸口で可笑しげな微笑を鳴らした。
「厭だわ。私に言い訳みたいな顔、使わなくて良いのに」
美しい鈴が転がるような音が触れるなか、舞衣子は、溜め込み続けていた息を、それと判る量で机に吐きつけていた。
「……どうしたの」
扉が閉まり、彼女が添ってきて、汀と二人だけの空間であることを肌で感じる。
「私、Lかも知れない。LGBTの」
長年、誰にも言えず言わないでいた積もりだったのに、何故かこのタイミングだった。
「……唐突ね」
「うん……。でも私には、ずっと唐突じゃなかったの」
傍らに立つ汀の位置は変わらない。舞衣子は伏せていた顔を上げた。
「逃げないの……? 鞠園さんは」
「どうして? 『忌避』すべき対象を前にしているのは、貴女もなんじゃないの」
伏せた汀の白い睫毛が近付いて、隣から佳い薫りが揺蕩ってきた。
「性差だ、個体を重要視してとか、よく叫ばれてるけど、そんな事を私は、生まれた時から主張した事なんかなかったわ」
「……鞠園さんは、綺麗だよ」
「有難う。でもそれと同じで、私も貴女のことを綺麗だと思うの」
胸のなかの震えが、迫る波のようにして溢れ、口から、目から壊すようにして押し出されそうで、痛い。
目からは、もう決壊していた。ぼろぼろと。情けなく。子供みたいに。
「本当は、まだよく解らないの。私は、本当は何が欲しいのか。私は、一体何ものなのか」
「そうなのね。私も同じよ。私も皆が持っている筈の『色』が、ないんだもの。透明よ。私こそ何者でもないわ。でも今思うのは、そうやってこわいこわいと怯えている貴女が、ひどく安心で、……可愛い、って思うこと」
涙でぼやけている筈の視界でも、汀の白く、透明な瞳を持つ貌は、確かにそこに存在していた。
そして舞衣子の目から涙を掬うその指は、ひどく心地良い『ひと』を感じる温もりだった。
「ねえ、私と一緒に見つけない? あなたの希む生きかた」
汀は人目を惹くし、美しいが遠い存在だった。
自分は人として欠落している。そうも言った汀なら、己の性差を見失っている自分を、だが共感してくれる気がした。
そして惧れていても、彼女となら知りたいと想った。まだ見ぬ自分と、他者との交わり。
この春の休み。閉ざされた汀の生家で。
そこから何が産み出されるのか、推い甘美な想望を、正直に胸の内へ疼くように仕舞っていた。
『ねえ、見つけましょうよ。 あなたの本当のすがた…………』
脳髄に優しい小槌でうつように、透けるようなその声が反響している。
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