春風と驟雨

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 母が出て行ってから、僕は何かあるとこのぬいぐるみに悩み事を相談していた。もちろん、ぬいぐるみは何も答えてはくれないけど、一頻り話しかけた後は不思議と心が安らいだ。  じっとぬいぐるみを見つめているうちに、僕はこのことをリノに説明したいという強い衝動に駆られた。  いつか母のことを話すつもりだった。でも、できないまま二年が過ぎてしまった。どうしても勇気が出なかった。なぜ母が出ていったのか、今だに僕にも妹にもわからないのだ。リノだけではなく、他の親しい友だちにも「母がいない」という事実以上の説明はしていない。家族でも避けている話題だった。知りたくない現実を知ってしまいそうで、この件について口を閉ざしている父に詳しい話を聞く勇気が持てなかった。  自分が望まれない子であったかもしれないなんて事実、知らないで済むならその方が良い……なんて今も思っている僕の精神年齢はずいぶん実年齢より幼いのかもしれない。  でも、リノには母さんのことを説明しないと……! 今を逃したら……!  僕は鍵とスマホだけ持って玄関へと急いだ。けれども、ドアノブをひねって外に出た瞬間、激しい雨が降っていることに気づいた。胸に迫るような驟雨だ。  ざあざあと降りしきる雨音を聞いている内に、不思議と懐かしい感覚に襲われた。渦を巻き泡立つ感情が半強制的に静められていく。まるで何者かに大きな腕でしっかりと抱きすくめられているかのように。落ち着いた口調で耳元に何事かを囁かれ、教え諭されている錯覚を覚えた。  しばらく雨音に耳を傾けて我に返った僕は静かにドアを閉じた。この降りなら、きっとリノはタクシーで帰ったに違いない。追いかけても無駄だ。よりを戻すチャンスを失ってしまったみたいだな――。 「母さん、もう僕がリノに会うことはないのかな?」  振り返ってシロクマのぬいぐるみに思わず話しかけていた。やっぱりぬいぐるみは何も答えず、いつも通りちょっと間が抜けた表情を浮かべているだけだった。
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