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一見すると街の景色を構成するだけの、レンガ造りの小さな宿屋。
悲しげに錆び付いた看板は、今にも朽ちてしまいそうな印象すら、訪れた者に与えるだろう。
だが、扉を開けてすぐ現れたのは、そんな想像とは真逆のギラついた輝きだった。
街の小さな宿屋なんかの玄関先には相応しくないような、豪華なキャンドルのシャンデリアと、地下へと続く赤絨毯が敷かれた階段が、訪れた者の好奇心を煽っていくだろうと、アンリはすぐに分かった。
階段の先がどこまで続いているかは、入口付近からは見えない。
だが、盛り上がりは聞こえる。喧騒が言葉の粒を殺しているので、具体的な会話の内容まではアンリには届かなかったが。
「いらっしゃいませ」
背後から見知らぬ男の声がして、アンリは急いで振り返る。
(……カラス……?)
背はアンリより少し高めだが、猫背を黒マントで隠したような奇妙な姿の人間が、まるでカラスのクチバシのような仮面を被って立っていた。
まさに、カラスの怨霊のようだった。マントがどこからか吹いてきた風に揺れ、ほんの微かにアンリの体に触れなければ、アンリは本物だと思っただろう。
(それにしても、いつの間にそこにいたのかしら)
アンリは扉の外に、御者を立たせていた。そして何かあれば、大声を出してアンリに合図するようにとも、言っていた。
だが、その合図はなかった。
(……いちいち不気味ね)
アンリは、率直な感想を表に出さないように、慎重に顔を造った。それはアンリにとっては1回目の人生で散々やらされてきたことだから、容易だった。皮肉な程。
次にアンリが考えなくてはいけないことは、放つべき最初の言葉。
アンリが欲しい情報は、たった1つだけ。
それさえ手に入れれば、もう何もいらない。
だが、それがいかに難しいか、アンリは嫌というほど魂に染みている。
確証はない。でも、2回目の人生と聖女になったという事実は、アンリの頭を冴えさせる。
この第一声が正しいか間違っているか。今、アンリは確かめる術もなく、ただ進むしかない。
でも、アンリの心は不思議と静かで、穏やかだった。
すっと、アンリは小さく呼吸をしてから、呼吸と一緒に声を乗せた。
「いつもと同じように」
間違っていれば、追い返されるだけではきっと済まないかもしれない。
それでも、アンリは待った。
この言葉が正解だったという証を。
カラスのクチバシが微かに動いた時、アンリの背中に汗が流れた。
(なんて、気持ちが悪い感覚だろう)
そうアンリが感じたと同時に、事は動いた。
「畏まりました。アンジェリカ・フィロサフィール様」
ああ、なんて事だと、アンリは天を仰ぎたくなった。
アリエルはアンジェリカの名前を語り、悍ましい性欲に満ちた、秘密の仮面舞踏会へと参加していたことが明らかになったのだ。
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