147人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
アンリの突然の依頼に、御者は困惑した。
「今からですか!?」
当然だろう。すでに月は煌々と照らされ、ほとんどの街の店は眠りについているような時間だから。
だが、その時間だからこそ見える顔があることを、アンリは知っていた。
「悪いようにはしないわ」
「しかし……」
渋る御者に、アンリはほんの少し煩わしさを覚えた。だが、先ほどまで話していた金髪の悪魔との会話に比べると気持ちはとても楽なので、そのまま深呼吸を始めた。
体に酸素を取り込み、しっかりと次の作戦を立てられるように。
(そうだわ)
「お聞きなさい」
「は、はい!」
「もし私の願いを聞いていただけたならば……私が持つ宝石を1つ、あなたに差し上げても良いわよ」
「はい!?」
(どうせ、明日には私にとっては石ころ同然のものになるのだから)
「どう?私を街に連れていく気にはなったかしら」
御者は、悩んでいるような振る舞いはしたものの、それもほんの数秒程度。
アンリの為に再び馬車の扉をさっと開けたのだった。
そうして、やってきた夜の街は、昼間に生きる人々の姿はなく、その代わり無数の夜の住人たちが生気を失った目でたむろしていた。
確かにその人たちは呼吸をしているはずなのに、生かされてはいない。
そんな人たちをアンリは、1周目の人生で見させられていた。
「や、やっぱり戻りましょう」
「まだよ」
御者はアンリがバッサリと断った後も、何かをアンリの後ろで言っているようだったが、アンリはそれらを聞かなかったことにしながら目的の地へ向かった。
一度目の人生の時アンリは哀れな、屍同然となった女性たちがいることを、そこで知った。
肉体の生命を保つために、心の生命を殺し続ける仕事を、獣に強制され続けた女性たちを見た時、アンリはどうしてか妙に親近感を覚えた。
(ああ、彼女たちは私と似ている)
だからだろうか。
その場所の近くで、たった一度だけ見た光景は、一度死んだと言うのに脳裏に焼きついて離れてくれない。
その地獄の光景をアンリは抱えたまま戻ることができたから、一筋の光が差し込んだのだ。
「ほ、本当にこちらに……?」
「ええ」
「もしアンリ様に何かあった時、私は教皇様になんと言えば……」
不謹慎かもしれないが、アンリは御者が自然と自分の新しい名前を言ってくれたことが嬉しいと思い、微笑してしまった。
でも、自ら張った緊張の糸は、そんな吐息ごときでは切れるわけもないし、切らせもしない。
「大丈夫。何も起きないから」
アンリは知っていた。
この、見た目は街の影に溶け込んだ静かな建物の中で繰り広げられている、悍ましくも華々しい、禁断の催しを。
そしてその催しを行う人間が、アンリを知らないはずはない。
悔しいかな、アンリは聖女になる儀式をしたものの、まだ表には著名な貴族令嬢なのだ。
明日の舞踏会までは。
だからこそ、この身分を最後に思う存分利用させてもらうことに、アンリは決めた。
アンリは手をかけた。
普通の可愛らしいお嬢様が入ってはいけない、魔境の扉に。
そして、この魔境の扉の先にこそ、アンリが求めているアリエルの知られざる秘密があって欲しいと、二度目の人生で初めてまともに神に祈りながら、その扉を開けた。
最初のコメントを投稿しよう!