くすぐる

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くすぐる

 公園には人ひとりいない。砂場の囲いに小さなスコップが置いてあった。生垣の樹は葉を落とした枝を悲しそうに交叉(こうさ)させていた。わずかながら差し込んでくる街灯の光は、ところどころ錆びたスコップの持ち手をきらめかせるには心細かった。道路の向こうにある病棟は、車一つ通らない歩く人の気配もないここ一帯の静けさを、病室の窓からその中へと吸いこんでいるように見えた。  ベンチに腰をかけようとしたが、朝に降りしきった驟雨(しゅうう)の跡を残したままだった。落ちつきのない気持ちが、さらにいっそう不安に震えていった。いまは晴れやかになった夜空には、判を()したかのような月が、春を待つ熊のようにじっとしていた。  檸檬をかじったときの酸っぱさのような、身を悶えさせてしまうほどの刺激になりうるものが、ここにはひとつもなかった。眼を開けられないほどの凍えるような風も吹かず、ときおり、冬に枯れた樹々の枝が寝がえりをうつ、かすかな衣擦れのような音がするだけだった。  もう、家の鍵を探す気にはなれなかった。この公園のどこかにあるはずなのだ。階段の手すりのペンキが剥がれている、(ふすま)がすんなり開くことがない、寒さにも暑さにも弱い、台風がくればガタガタと揺れるアパートから、これをきっかけに出てしまいたいと思った。  隣にも下にも入居者がいない角部屋は、お金のない身にとって、彼女と安らかに過ごすことのできる唯一の空間だった。だが、そこはもう、だれのものか分からない林を背負った、虚しさに打ちひしがれているひとり身の自分が、空っぽの箱のなかに閉じ込められているような気を起こさせるだけの場所でしかなかった。  かさぶたを、だらしなく伸びた爪でひっかいて、そこにできた裂け目から鮮血がにじんでくるのを見て、妙な興奮を覚えるという夢を、昨日の夕暮れどきにみた。  昼めしを食べたあと、すぐにうとうとしだして、敷きっぱなしのふとんにもぐりこんだ。眼が覚めたら仕事に行く、次の日は公園で待ち合わせがある、というふたつのことだけを(おぼろ)な意識のなかで確認したら、すぐに、なにも考えることができなくなった。そして、脇腹をくすぐられて、相手の手を振り払おうと身体をくねくねとさせている自分が、ふとまぶたの裏かどこかに、ほんの少しの間だけ映った。  脇腹をくすぐられている自分の姿が、眠りに落ちる寸前に浮かんでくるのが、もう半年近く、毎日のように続いている。このことがなにを暗示しているのかは分からないが、いったい、ぼくの脇腹をくすぐるのは誰なのかということを知りたくて、眠りに落ちる前のこの映像をはっきり見てみようとはするものの、すぐに眠りの中へと取り込まれてしまう。  陽気なでんでん太鼓のように顔を振って、やめてやめてと相手の手を振りほどこうとする。その「やめて!」という拒絶の声が、嬉しそうに「もっともっと!」と言っているかのように聞こえている。  眠りに落ちる前のふわふわとした意識のなかで、優しくて温かい手にくすぐられる、その幸せなひとときに、ほんのりと(かげ)る寂しさのようなものをどこかに感じてしまうこともあった。  いまは日々の悲しみから逃れて、安心して眠ることができるのだという気持ちのなかに、静電気のようなものが知らないどこかでかすかに走っている気配がする。  そして、かさぶたを裂いてにじんでくる血を眺める夢を見た。あの夢から覚めたあと、もう眠るまいと思った。眠ることが怖かった。これからは、幸せな一時のかわりに、抑えつければ鮮血がナメクジのような足跡をつけるあの映像が、深い眠りに入るのを妨げてしまうのではないかと恐れている。  財布を後ろポケットから取り出したときに、中から小銭がこぼれ落ちてしまった。いくら入っていたかということを思い出そうとした。が、たとえ一円玉ばかりであったとしても、朝に降りてくる霜に濡らしていいと諦められるほどの余裕なんてない、窮屈な日常を送っている。  湿った土のうえに撒かれた硬貨を一枚手にしたとき、首からするりと落ちていくものがあった。自分にすがりついてくる女性の手が離れていくときのような感じだった。泥がついてしまったな、すぐにでも拾い上げて汚れをふかないとな。そう思ったのに、どうしても手が動かなかった。マフラーの方も、拾ってほしいとは言わずに、小銭の上にかぶさっていた。  あらわになった首筋にぽとりと水滴が落ちた。風が走って、つんと痛んだ。夜やみのなかのマフラーがかさぶたのように見えた。ぽつりぽつりと雨滴(うてき)が降ってくる。空気の塊にでも押しつぶされたかのように、ドスンと身体が重たくなって、このまま眠ってしまいたいような、いまならよい夢を見られるのではないかという予感に、自分が鍵を探しているということを忘れさせられてしまった。
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