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4
翌日。
サマエルは初めて鍛錬と授業を休んだ。
この一ヶ月間ずっとがんばってきたから、さすがに疲れたのか。そう軽く思ったが、次の日も、更にその次の日もサマエルは部屋から出てこない。
さすがに心配になり見舞いに行っても会ってくれず、そのまま一週間がたった。
「大丈夫かな……」
自室にて宿題を解き終え、ふとサマエルのことが頭をよぎった。
「サマエル様のことなら心配しなくてもいいと、思いますよ……」
ハンナはそう呟きながら、温かい紅茶をテーブルの上に置いてくれた。その顔はやや険しくみえる。
兄妹仲良くなって欲しいハンナであったが、私がサマエルに頬を摘まれてからその心境が一変した。
人知れず私がサマエルに虐められないようにと、いつもぴったりと傍についてくるようになった。
守ろうとしてくれるのは嬉しいけど、一瞬も離れないためにまったく水分を取ろうとしなかったのは少し心配だった。
「城のお医者様もいるから大丈夫だと思うけど、ずっと体調わるいのは気になる」
数秒ほどの沈黙の後、ハンナがおずおずとした様子で言った。
「サマエル様は……本当は病気ではございません」
「え?」
「ご本人はお元気なのですが、リリト様には病気と伝えるようにと、どうもお会いしたくないご様子で……」
なんでもサマエルは鍛錬の場所を変えただけで、毎日自室でこっそり勉学を続けていると言う。
まさか仮病をつかってまで私と会いたくなかったとは……
ショックを受けていれば、ハンナはどこか痛ましそうな表情で私をみた。
「サマエル様はわがままなお方です。無理してお付き合いすることはございません。そろそろ皇帝陛下も視察から……あれ、リリト様!? どちらへ行かれるのです!?」
「サマエルのとこりょ!」
感情が昂ると噛みまくってしまうが気にしない。
私はズカズカと部屋を出ていった。
こっちだって会いたくて会いに行ってるんじゃない。
来ないなら悪行をバラすとか言って脅してきたのはあっちなのに、あまりだ!
こうなったら本のことに決着をつけ、ついでに文句の一つくらい言ってやらないと気が済まない。
サマエルには分かってもらえないだろうけど、人形だって怒る時怒る。
ぷんすかしながら宮殿の裏庭へ行くと、ハンナの証言どおりサマエルの姿があった。
ご本人はぶんぶんと力強く鉄拳を振っている。
私への対抗心から無茶して体を壊したかと心配したのに、損した!
「お前っ、なぜここに……」
私に気づいたサマエルは幽霊でもみたかのように、ひどく狼狽した。
「嘘がバレるのが怖いにゃら、最初からつかなければいいのでしゅ!」
「…………う」
反論すらしない。
この2ヶ月間でだいぶ打ち解けたかと思っただけに、少し傷ついた。
「……分かりました、本さえ図書館に返してくれればもう会いにきませんから、ご心配いりません」
「ち、ちがう……! 会いたくないのではなく、会う心の準備というか、まだできなくてな……」
何その下手くそな言い訳。
「まだ心の準備ができないから仮病を使いました? 心配すりゅ人の気持ちをバカにして……」
身体が子どもにもどったから、精神も影響されたのか分からないが、喜怒哀楽の感情のコントロールがあまり効かない。
怒りと悲しみとで眦が熱くなった。
私をみて、サマエルがパチパチと金目を瞬かせた。
「心配して、くれたのか? 俺のことを……?」
「当然でしゅ! サマエル様にとって私はただの人形でしょうが、それでもちゃんと心があるのでしゅ!」
「…………そう、か」
サマエルは一拍の間をおいてから、騎士たちに向かって軽く手をふると、周囲から一斉に侍従が立ち去っていく。
「……人形と言ったのは、悪かった」
「サマエル様の本心で事実でしゅから、別に」
「そう怒るな。……いや、普通は怒るか」
はぁぁぁあ、とサマエルは自分の髪をガシガシと掻くと、困った顔で私をみた。
「信じてもらえないだろうが、俺はお前が羨ましかった」
「へ?」
羨む……? サマエルが、私を?
「……もしかして、この美貌に?」
「は?」
指で自分の顔を指すと、サマエルが冷めた目で私をねめつけた。
「いや、ほら、人工物なので一応、整っているから……」
サマエルの視線が冷たい。真冬の川でも人の心をここまで凍らせることはないでしょう。
「無性に前言撤回したくなるが……はああ。しかし、お前のそういうところを父上が気に入ったのだろう」
「はぇ?」
「もういい! とにかく! お前のことをもう人形だと思っていない。……少なくとも、今は」
私と向かい合ったまま、サマエルはどこか困惑そうな声色でこぼした。
「嘘をついたことには謝る。……ただお前を妹として、家族として思ったこともなかったから、どう接すればいいのか分からなかったんだ」
サマエルは母である王妃に懐いていたようだが、父からは一定の距離を置かれていた。
そして王妃がこの世を去った後その関係が段々と悪化して、サマエルはある事件をきっかけに皇帝を殺めてしまうのだ。
詳細は書いてなかったから分からないが、そうなるのが自然だと確信して書いていたと記憶している。
小説ではリリトのいる場面以外の情報を出さなかったため、前世で私がこの世界を描写した事実はあれど、作ったかというと微妙に思えてきた。
だってこんなにもサマエルや周囲の人間のことが分からなさすぎるんだもん……
「もともとサマエル様は私のお兄様でしゅから、いつも通り接すればいいでしゅ」
「いつも通り、か……」
サマエルはどこか悩ましげな表情を浮かべた。
そしてしばらく考えこんでから、小さく首を左右にふった。
「ダメだ。家族は大切な人だから、大事にしなければならない。母上がそう言っていた」
そう言いながら私を見つめてくるサマエルの瞳は光を反射してゆらりと揺れた。
お前を大事にしたいが、どうすればいいのか分からない。まるでそう訴えてくるかのように。
サマエルはまだ9歳だ。人との付き合い方などよく分かっていないのだろう。ましてやこの特殊な家庭環境だ。ひねくれるのも仕方がない。
「簡単でしゅよ」
なるべく穏やかな声色で、サマエルを宥める様に言った。
「王妃様がサマエル様にしてきたようにすればいいのでしゅ」
「母上と同じように……?」
そういえば王妃はサマエルが3歳の時にいなくなったから、あまり覚えていないのかも。
えーと、えーと、と暫し唸って、私は閃いたようにポンと手のひらに小さな握り拳を叩いた。
「これからも一緒に勉強して、たまに遊んで。美味しいものあれば分け合って、病気の時はそばにいてくれる。それで充分でしゅ」
「それが大事にすること……?」
「そうでしゅ。複雑に考えないで、一緒にいる時間を大切にしよう。……あっ、あと私の頬をつままないで、睨むのも怖いから、やめるのでしゅ!」
ここぞとばかりに主張する私を呆然と眺めるサマエルだったが、ふいに困ったように眉間を引きむすんだ。
要求が多くてめんどくさいと思ったのだろう。
調子に乗りすぎたかも! 焦るが時すでに遅し。見ればサマエルは私の頬に手を伸ばしてきた。
「ぼ、暴力反対でしゅ……ひぇ!」
ピタッとサマエルの手のひらが頬にくっつくが痛みはない。
つむっていた瞼をおそるおそる上げると、そこには後ろめたそうな表情があった。
「……乱暴なことをしたな。すまない」
サマエルの長い指が固まる私の頬を撫でていく。
幼い手にはそぐわないザラザラとした剣だこの感触が広がり、それがサマエルの長年の努力の勲章だと思うと妙に感慨深いものがあった。サマエルは案外不器用なのかも知れない。
どこはかとなく気恥ずかしくなって、私は後ずさった。
「べ、別にもういいでしゅ……」
じんわりと頬が熱い。
無意識のうちに顔を伏せてしまったようで、上目遣いにみるサマエルの顔はキョトンとしていた。
「お前、照れてるのか?」
子どもの身体になったとはいえ、サマエルに照れるほど精神は衰退してない……はずだ!
「坊やに触れられたくらいで誰が照れるものでしゅか!」
「……ぼう、や?」
サマエルの顔から感情の抑揚が消えさった。もう冬は過ぎたはずなのに、空気が冷たい。
「い、いまのは言葉のあや……」
「へぇ、言葉のあや。ふぅーん」
ゴゴゴとサマエルの背後から黒いモヤが見える。怖い。
「ぐえっ!」
やばいと逃げ出す私の首に腕を回して、サマエルがゆっくりと引き戻した。
「なぜ逃げる? 俺らは家族だ。怯えることはない」
サマエルはニコニコと微笑んでいるが、その雰囲気は恐ろしいほど不穏である。
うえーん、一瞬だけ優しかったサマエルカムバック!
何となしデジャブっぽい感覚に陥っていた時、両頬をぎゅうと指で引っ張られた。
「の、のびりゅ、頬がのびりゅ……!」
「ふ、ふふふ」
サマエルが喉の奥で小さく笑った。
普通に笑うこともできるんだ。いや、人間だし、当然か……
「リリト。改めて、これからもよろしくな」
「よ、よろしくでしゅ、サマエルしゃま……」
初めて名前を呼ばれた。
引っ張られた頬は痛くないはずなのに、うるっと何故か目尻が熱くなった。
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