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”一緒に走ろうね?”
これほど信用できない約束が他にあるだろうか。
由紀は、うんざりとした気持ちをグッと抑え込み、「うん」と返事をすると、いそいそと横に並んだ顔を盗み見た。
青木加奈。たまたま席が隣になって以来、妙に馴れ馴れしく接してくるようになった子だ。別に悪い子じゃないし、なんなら話しやすいタイプ。でも…時々、鋭い眼差しでどこかを睨みつけている彼女が、由紀には少し苦手だった。
「寒いよね。こんな寒い時に、わざわざマラソンなんて、ねぇ?」
「ねぇー」
なんて中身のない会話だろう。
由紀は、そこまで親しくもない相手にすら気を遣っている自分に、ほとほと嫌気がさした。
私って、どうしていつもこうなんだろう―。
「位置について、よーいスタート!」
体育教師の号令と共に、短く笛の音が鳴った。
すぐさま飛び出していく数名を除き、団子となった列が動き出す。めんどくさそうに、重たい足を機械的に前後しながら。
由紀は、ちらりと斜め前方に視線を向けた。ゆらゆらと左右に揺れる長いポニーテールが、まるで「さよなら」と手を振っているように見えた。
「…気になる?愛子ちゃんのこと」
いつから見られていたのか、思いのほか近い距離にいた加奈がニィーと笑った。「当たりだ、仲良いもんね」
由紀は、なんと言ったらいいのか分からず、少し速度を上げた。すると、小さな笑い声と共に「ごめんごめん」と謝る声が聞こえ、「早く仲直りできるといいね」と、先程のお詫びのつもりなのか、加奈は神妙な表情で付け足した。
由紀は「うん」と頷くと、再び揺れるポニーテールに視線を戻した。
走り始めてニ十分も経つと、団子状態だった列は更に細分化され、小さな塊が多く見られるようになった。
そしてこの頃からだ、各所でチラホラと小さな裏切りが始まる。
「ごめん…!」「え?」
短いやり取りの後、ダッと加速する一組の足音―。
気持ちは分かる。
由紀は、また一人走り去る背中を見つめながら思った。誰だって、一刻も早くこの長い長い地獄から解放されたい。
しかし、ならばなぜ、守れもしない約束をするのか、とも思った。まるでそれが、友情の証でもあるかのように。
「あはは、また置き去りだね」
無邪気な笑い声に釣られ、由紀は横を見た。てっきり、早々に走り去るとばかり思っていた加奈は、いまだ由紀と並走している。それも、まるで散歩しているかのようにケロリとしているではないか。
「あ、おきさん…元気、だね」息も絶え絶えの由紀は、なんとなく恨みがましい目を向けて言えば、「だって、元陸上部だし」と、あっけらかんとした答えが返ってきた。
確か、今は部活よりやりたいことがあるって、言ってたっけ。そんなことを思いだしていると、「ねぇ、由紀ちゃん」と話しかけられた。
「私で良ければ、話きくよ?」
由紀は、思わず立ち止まっていた。はぁはぁと、せわしなく肩が上下する。それなのに、一向に酸素が取り込まれている気がしない。
加奈もまた立ち止まって、通り過ぎていく背中を見送っていた。その横顔が、なぜか頼もしく見えてしまった。
だからだろうか。「別に、大したことじゃ…」気が付けば、口が勝手に動いていた。「あの子…愛子が、私のことウザいって言ってるの聞いただけ」
一週間前の放課後のことだった。由紀は、職員室に呼ばれた加奈に代わって、忘れ物を取りに戻っていた。「先に帰ってて」そう、加奈は言ったのだが、困っているようだからと、由紀から言い出したことだった。
加奈を見送り、教室まで引き返すと、扉越しに二人の人影が見えた。まだ居残っている人がいたのか。そんなことを思った時だ、聞き馴染みのある声が聞こえてきた。
「まじ、ありえないんだけど!」
びっくりした由紀は、思わず扉に掛けていた手を引っ込めた。
「やっぱアイツ、八方美人だわ。みんなにいい顔して、裏ではボロクソ言ってるとか。まじクソかよ」
「あー由紀?アイツまじ、いいかっこしぃーよな」
「しかも、わざわざ紙に書いて寄越すとか、ありえなくない?言いたいことあんなら、面と向かって言えよ」
「それな」
ここにいたらダメだ。由紀は咄嗟に思った。
早く離れないと、ここから早く。そう思っているのに、足は微動だにしなかった。
「あーもう、腹立つ!まじなんなの」
「ちょい落ち着けって、”愛子”」
…ああ、やっぱり。由紀は、まるで死刑宣告を受けたように、その名前を聞いた。
「前々から、すげぇ顔色見るヤツだとは思ってたから、こっちも配慮してやったのに」ガンっと鈍い金属音が響いた。「まじシねよ」
限界だった。その瞬間、由紀は無我夢中で駆け出していた。
「なるほどね、そういう事か。だからあの時、あたしのこと素通りして帰っちゃったんだ」苦笑を浮かべた加奈が、軽く由紀を睨んだ。「約束、忘れちゃったのかと思った」
由紀は反射的に謝ると、その後すぐに口をつぐんだ。
「うそうそ、ごめんね。…でも実際さ、由紀ちゃんがやったわけじゃないんでしょ?」
「私じゃない!」由紀は大きく頭を振った。「そんなヒドイこと、できない」
「だったら、どうして早く誤解をとかないの?」
ハッと、由紀は顔を上げた。そして、キュッと眉根を寄せると、何かに耐えるように下唇を噛みしめた。
「当てようか。その”長い手紙”を書いた人のこと考えちゃったんでしょ」
加奈は優し気な微笑みを浮かべつつ、驚きに目を見開く由紀との距離を縮めた。
「もし、自分じゃないって否定したら、きっと愛子ちゃんのことだから、徹底的に犯人探しをするはず。そうして見つかった犯人が、一体どんな目に合うか…優しい由紀ちゃんは考えちゃったんだよね?だから、言い出せない」
由紀の瞳が大きく揺れた。「どうして…」
「分かるよぉ。だって、あたし由紀ちゃんのこと大好きだもん」加奈はニッコリと微笑むと更に一歩、由紀に近づいた。
その時、最後尾から追いかけていた体育教師の声が聞こえた。「おーい、どうしたー?」さび付いた自転車がたてる、ギギギ…という耳障りな音がやけに大きく聞こえた。
「なんでもありませーん!少し、きゅうけーい」
ふざけた様子で返事を返した加奈は、由紀の手をギュッと握った。「さぁ、由紀ちゃん!もうひと踏ん張り。一緒に走ろう?」
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