狗奴国男王卑弥弓呼との不仲と卑弥呼の死に関する記述

1/1
前へ
/14ページ
次へ

狗奴国男王卑弥弓呼との不仲と卑弥呼の死に関する記述

其八年、太守王頎到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。 「その八年、太守の王頎が就任した。倭女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼は素で仲が悪かった。倭載斯や烏越などを派遣して郡に相互攻撃の状況を説明させた。その後、塞曹掾の史張政らを派遣し、黄幢とともに詔書を携えて、難升米を偽って糾合し、戦いを止めるよう命じた。」 卑弥呼以死、大作冢。系百余步。殉葬者百余人。 更立男王、国中不服、更相誅殺。当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定。 「卑弥呼は死に、大きな古墳を作らせた。その墳は100歩以上に渡り、殉葬者は100人余りだった。 新たに男王を立てたが、国内に不服者がおり、相互に殺し合った。当時の犠牲者は千人余りに上った。その後、卑弥呼の宗女である壹與が13歳で女王に立てられ、国内がようやく安定した。」
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加