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第一話
本気の恋なんて、たぶんもう、することはないんだろうと思っていた。
赤坂怜ニはふと手を止めて顔を上げた。
キィボードを叩いていた音が止まり、もとから静かだった保健室はいっそう静かになった。エアコンの立てる微かな機械音だけが響く。かわりにそれらを掻き消しそうなほどの音量で、締め切った窓の向こうから賑やかな声が届く。部活中の生徒達だ。
(……若いなぁ)
キィボードから手を離さないまま、首だけを巡らせて、怜ニは机の横の窓に視線を向けた。保健室は校舎の一階にあり、カーテンを開けた南向きの窓からはグラウンドが斜めに見える。パス練習中らしいサッカー部員達がグラウンドの中央に一定間隔で並び、その向こう、田畑に張り出すように整備された野球グラウンドでは、野球部員が白球を追っている。
養護教諭である怜ニは、この残暑の中で汗を流す彼らが心配になった。けれど生徒達は元気だ。真っ黒に日焼けして、溌剌と部活に熱中している。
四十路を越えた怜ニには、自分にもあんな時代があったことが最早信じがたい。
(あの子の部活は、ここからは見えないな)
ふと、そんなことを思った。体育館は直射日光は当たらないかわりに風の通りが悪く蒸し暑いだろう。大丈夫だろうか。
(……毒され過ぎだな)
こんな風に、一人の生徒のことをなかば無意識に思い浮かべることがある。いい歳をした大人が、あんな子供に振り回され調子を乱されている。そんな自分を、苦く笑う。
机の上のノートパソコンに向き直る。事務作業を再開しようとした、その時だった。
「赤坂せんせぇ、怪我しましたぁ」
声と同時に、ガラリと無遠慮に保健室のドアが開けられる音がした。関西なまりの残る声に緊迫感はない。大した怪我ではないのだろうと判断しながら出入り口を振り向く。
そこには生徒が二人いた。ひとりはひょろりと背が高い。確か佐伯智哉という名前だったはずだ。顔つきも醸し出す雰囲気も朗らかで、気のいい大型犬を連想させる。
もう一人がさきほど無意識に頭に浮かべた生徒――吉住つばさだった。人形のように整った涼し気な顔をした生徒だ。剣道着姿で、同じく剣道着を着た佐伯に肩を支えられて立っている。身長差の分だけ佐伯は背を屈めているようだった。立つのに支えが必要だということは、怪我をしたというのは足なのだろう。
思い浮かべた相手がその次の瞬間に現れたことに怜二は少なからず驚いた。一瞬の驚きをなんとか顔には出さずに済ませる。
「そこ」
処置用の丸いすを指で示した。
「座らせて」
デスクから立ち上がり、怜ニもそちらに歩み寄る。夏用のカッターシャツの上から羽織った白衣の裾が、ひらりと揺れた。
佐伯に手助けされながらつばさが丸いすに腰掛けた。その動きが右足を庇う動き方で、怪我をしたのは右らしいと怜ニは当たりをつけた。
椅子に腰掛けたつばさが佐伯を見上げて
「ありがと、もういいよ」
と笑う。
「ん、ほな俺、部活戻るわ」
つばさに対して緩やかに微笑んだあと、剣道部らしい折り目正しい仕草で怜二に頭を下げて「失礼します」と佐伯が出ていった。保健室には怜ニとつばさの二人だけになる。窓の外の賑やかな声が、ふいに遠くなったような気がした。
「……怪我したって?」
「踏み込んだ時に、足首が」
「見せて」
つばさの足元に屈みこむ。
「袴、ちょっと上げて」
怜二の指示通りにつばさが袴の裾を引き上げる。腕は健康的に焼けているのに、現れた足首は白かった。少年の頼りなさと青年の逞しさが混ざったくるぶし。
「……多分、捻挫してるね」
そっと触れて持ち上げる。足首を軽く回させても、そこまで痛がる様子はない。
「え、捻挫?」
「そんなにひどくはなさそうだけど、ニ、三日は部活はお預け……かな」
「ちぇーっ」
子供じみた返答がかえる。その物言いを少しばかり珍しいと思った。普段、自分の前では背伸びをしているのかもしれないとうっすら察する。
「よし、処置終わり。……立てる?」
簡単なテーピングを施して怜ニは立ち上がる。それから手を貸してつばさも立たせた。足首を確認するような素振りを見せた後で、怜二の顔を見上げてつばさがにこりと笑う。
「うん。大丈夫そう」
「良かった。お大事に」
「あ、ねぇ、待って」
つばさを支えていた手を離すと、それを追うように、つばさの手が怜ニの白衣の襟を掴んだ。ぐいっと引かれ、怜ニの体がつばさに向けて傾く。それでも埋まらない身長差の分、つばさがぐっと背伸びをした。つばさの唇が怜二のそれを掠めて離れた。成長期の少年の、汗の匂いがふわりと香った。
さすがに驚きはしたが、分かりやすく狼狽 えるほど若くもない。抗議の代わりに、小さくひとつ溜め息をついた。
「お礼です」
唇を離して、つばさが囁く。
「……つっ」
直後、その顔が痛そうに歪んだ。
「バカ。捻挫してるのに、背伸びなんかするからだよ」
「じゃあ、赤坂先生がもっと屈んでください」
つばさの額を指先で弾く。
「……いてっ」
「調子に乗るんじゃないよ」
弾かれた額をつばさが押さえる。不満そうに口元を歪ませた。
「……いつか、先生より高くなって、軽々キスできるようになってみせるからね」
「ふ。……その時まだ俺のことが好きだったら、させてあげるよ、キスぐらい」
「ほんと?」
「……さあ?」
養護教諭である怜二は、当然、生徒たちの健康診断の結果には一通り目を通す。つばさは入学からの一年でほとんど身長が伸びていない。一六〇センチ代後半から、辛うじて一七〇センチ代に入った程度だったはずだ。一方で、怜二自身は一七七センチある。抜かされることはないだろうし、もし遅い成長期が来て追い抜かされたとしても、その頃にはつばさの方がこんな口約束を覚えていないだろう。
「ずっるい。……見下ろされるようになってから慌てても遅いよ? 俺、忘れないからね、今の言葉!」
「……若いなぁ」
「え?」
「なんでもないよ。ほら、大丈夫なら帰った帰った」
追いたてるように手を振る。
「……はーい。じゃあね、先生。ありがと」
朗らかに笑って、つばさが保健室を出ていく。怪我をしているくせに、その足取りはどこか楽しげだった。浮かれているようにも見える。
(若いなぁ)
今日はやけにその言葉を繰り返していると気づく。理由のはっきりとしない笑みが、怜ニの口元に浮かんだ。
怜二が吉住つばさと出会ったのは去年の入学式だ。真新しい濃紺のブレザーに身を包んだつばさは、今よりさらに背が低く体つきも華奢だった。濃く長いまつげに縁どられたくっきりとした二重の瞳が印象的で、制服を着ていなければ少女のようにすら見えた。
怜ニの勤務する県立高校は県内でも大きめの部類に入り、一学年に三百人以上の生徒がいる。養護教諭である怜ニはなるべく全員の顔と名前を覚えるように心がけているが、さすがに入学式当日に覚えられる生徒はほとんどいない。アレルギーや持病があったり、中学での集団生活に難があったりなど、特に注意を払うべき数人をなんとか覚えている程度だ。
つばさはそういった生徒には当たらない。健康面に不安はないし、内申書の情報では性格も明るく集団生活にも問題はなく、学業も運動も得意だったようだ。
あまり注意を払うべき生徒ではなかった。三年間で一度も保健室とは縁のない生徒も大勢いる。そうなる可能性の方が高い生徒だった。それでも入学式の日から怜ニがつばさの顔と名前を覚えたのには理由がある。その容姿が周囲より抜きん出ていたせいではない。
入学早々、二年の生徒と軽い諍いを起こして保健室に送り込まれたからだ。
「まったく……」
薄くもなく厚くもなく綺麗な弧を描くつばさの唇の端を、オキシドールを染み込ませた脱脂綿で消毒しながら怜ニは呆れを隠せなかった。
喧嘩の経緯は教頭から簡単に聞いていた。入学式がつつがなく終わり、生徒たちがそれぞれの教室に帰る途中で二年の生徒がつばさの容姿を『女みたいだ』とからかったらしい。
腹を立てたつばさがその二年生に掴みかかり、跳ね除けられた。それが段々とヒートアップした。結果、二年生は手のひらを擦りむき、つばさは口の端を切って、二人仲良く保健室に放り込まれたというわけだ。
「入学早々、そんなくだらないことで喧嘩するんじゃないよ」
消毒を終わらせて患部を検分する。指を添えて顔を近づける。絆創膏を貼るほどではなかった。
怜ニの小言につばさはむくれた顔をしてむっつりと押し黙った。その様子をからかうようにニヤニヤと笑う二年生に怜ニは向き直る。
「君も、高校生にもなって他人の容姿をからかうなんて子供っぽいことするもんじゃない」
新しい脱脂綿を出してオキシドールを染み込ませる。
「からかったんじゃないっすよ。褒めたんですよ、綺麗だって」
黙り込んだつばさとは対照的に、こちらは減らず口を叩いた。怜ニはますます呆れてしまう。
「ならこの子が怒るわけないだろ。悪意があったから反撃されたんだよ。分かってて言ってるだろ。そういうの格好悪いよ。格好悪い男はモテないからね? 異性からだけじゃなくて同性にも好かれない。自分が損する前にやめた方が賢いよ」
今度はこちらも押し黙った。怜ニは自分が生徒たちから人気があるのを十分に自覚している。年齢の割に若く見えるし、柔らかく華やかな容姿で、すらりとスタイルもよく性格も気さくだからだ。その怜ニに『格好悪い』『モテない』と言い切られて返す言葉がなくなったらしい。
やれやれ、と、怜ニは嘆息する。黙り込んだ二年生に手のひらを出させて消毒をする。こちらも絆創膏を貼るほどの傷ではなかった。
「他人の容姿をからかうのも格好悪いし、男が自分のことで腹を立てて手を上げるのも格好悪いよ。他の誰かの為ならともかく」
処置に使った器具を仕舞いつつ、最後にそう締めくくる。本当はもう少し言ってやりたい気もしたがやめておいた。どうせこの後、強面の生徒指導担当からこってり絞られるのだ。
そのことに多少なりと憐憫の情を覚えつつ、怜ニは二人に向けてニコリと渾身の笑みを向けた。
「はい、終わり。行っていいよ」
その一件で、どうやら懐かれたらしかった。
「赤坂先生。入学式の日にはお世話になりました!」
「ああ。確か……吉住くんだっけ、保健委員になったの?」
入学式の翌々日の放課後、第一回の保健委員会で怜二はつばさと再会した。あの日は不機嫌に黙りこくっていたつばさだったが、その日はにこにこと話しかけてきた。内申書どおり、もともとの性格は明るいようだ。
「はい。先生とまた話したかったので」
意志の強そうな瞳に真っすぐ見上げられて、一瞬気持ちがひるんだ。それを顔には出さずに怜二はほほ笑む。
「そう。一年間よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
はにかむように、つばさが笑った。
まったくの偶然だったが、その年、保健委員長を任せることになった三年生の男子生徒も吉住という名字だった。
「紛らわしいから、俺のことは下の名前で呼んでください」
委員会の終わりに怜二のもとに近寄ってきたつばさが、臆する雰囲気もなくそう言った。
「う~ん……」
返答に困って怜二は頬をかく。生徒達には明るくきさくに接するよう心がけている一方で、きちんと線も引いている。基本的に生徒を下の名前で呼んだりはしない。とは言え、教師の中には気にせずに生徒を下の名前で呼ぶものもいる。自分がつばさと呼んだところで、特段咎められはしないだろう。
つばさは屈託なく怜二を見上げてくる。ここで変に断るとしこりが残るかもしれない。まあいいか、と、怜二は頷いた。
「分かったよ。……つばさ」
綺麗な弧を描く眉をあげて、つばさが照れたように笑った。
その笑顔にどきりとした。照れ笑いをしたときに細くなる目じりが、昔好きだった人にひどく似ていた。
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