第二話

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第二話

 人生で一番好きになったあの人は、一度だって自分を見つめてはくれなかった。  旅館の二階にあるロビーラウンジのソファに座って窓の外に目を向けると、幅の広い御池通の向こうに古めかしい石造りの京都市役所本庁舎が見える。  11月の京都には木枯らしが吹き、街路樹の梢を揺らしている。養護教諭である怜ニにとって修学旅行の引率は毎年ある重たい仕事の一つだ。今の勤務先では高2の11月に京都・大阪・奈良に行くのが恒例で宿も毎回同じなので、怜ニがこの旅館のロビーから京都市役所本庁舎をぼんやりと眺めるのはこれで五回目になる。  生徒たちは今、班ごとに京都市内の名所旧跡を見て回っており、付き添いの教員たちは二人一組で主要な観光地付近を見回っている。怜ニは養護教諭なので市内には出ず、体調不良の生徒や怪我をした生徒が出た時のために旅館で待機中なのだ。 「今年も何事もなく終わるといいわねぇ」  と、一緒に待機中の教頭が言った。怜ニはそちらに視線を向ける。四人がけのソファセットの対角線上に座った五十半ばの穏やかな女教頭は、頼んだほうじ茶を飲みながらニコニコと笑っている。  怜ニは、見るともなしに広げていた修学旅行のしおりを閉じてテーブルに置き、教頭に微笑み返した。 「ですね。特に今日ですかね」  二日目である明日は、朝一にバスで移動して一日中ユニバーサルスタジオジャパンで自由行動ということになっている。出入り口さえ見張っておけば生徒が行方不明になることもないし、大半の生徒はアトラクションに夢中になってくれるのでそうそう問題も起きない。最終日の三日目は奈良の東大寺や奈良公園の観光予定だが、そちらはクラス毎の団体行動なので班別行動よりは統制も取りやすい。一番トラブルが起きるとしたら、班別自由行動の今日だ。例年、旅館への集合時間に間に合わない班が一つか二つは出るし、班のメンバーとはぐれてしまう生徒や怪我をする生徒が出る年もある。  そういった旅程が書き込まれている修学旅行のしおりに、怜ニはなんとなく視線を戻した。その横には黒い二つ折りの携帯電話が置かれている。飾り気のないネックストラップつきのそれは、旅行会社から貸し出されたものだ。教師にはひとり一台、生徒は各班の班長に一台ずつ渡されている。プライベートではすっかり見かけなくなったが、業務用としてはまだ流通しているらしい。  怜ニ自身は、高校の修学旅行に二つ折りの携帯電話を持っていった世代だった。普段、校内への携帯電話の持ち込みは禁止されていたが、修学旅行の時は特別に許可されていたのだ。  メタリックな白とコバルトブルーのバイカラーで、カブトムシを連想させるようなコロンとしたフォルムだった。いつもは意識の片隅にも上らないが、毎年、修学旅行でこの二つ折りの携帯電話を貸し出される度に思い出す。  懐かしいな、と、目を細めかけたところで携帯が鳴り始めた。静かなロビーにデフォルトの呼び出し音が鳴り響く。  無意識に教頭に視線を走らせていた。教頭も怜ニと目が合うなりこくりと頷く。自由行動中にこの携帯が鳴るということは何らかのトラブルが発生している可能性が高い。 「はい」  少し構えながら怜ニは電話に出た。 『もしもし? 赤坂せんせぇですか?』  電話の向こうの声は関西弁のイントネーションだった。この携帯電話にかけてくる相手で関西弁を使う人間は一人しかいない。つばさのクラスメートである佐伯智哉だ。 「うん。どうした? なにかあった?」  十中八九そうだと分かっていて、とりあえずそう聞いた。机の上の資料をめくる。開いたのは、班ごとに提出させた今日の行動スケジュールのページだ。 『それが、吉住が怪我したもうたんですよ』 「吉住くんが?」  つばさの名前が出たことに少し驚く。ページを繰る指が、ちょうどつばさたちの班のところを開きあてたところだった。 『三寧坂で転けてしもて。本人は大したことないて言うとるんですけど、歩くとちょっと痛むみたいなんですよ』 「そう」  スケジュールでは清水寺での観光を終えて、徒歩で八坂から平安神宮へと移動している筈の時間だった。ここまでは予定通りに行動していたのが、アクシデントで少し遅れが出始めたのだろう。 「とりあえずそっちに向かうよ。携帯に出れる状態で待機してて」 『分かりました。三寧坂の近くで待ってます』  という佐伯の言葉に 「うん」  と返して怜ニは通話を終了させた。 「怪我? それとも体調不良?」  斜め向かいから教頭が聞いてくる。穏やかな表情の中にも、僅かばかりの緊張を滲ませている。怜ニは安心させるように小さく微笑んだ。 「清水の近くで転んで怪我をしたそうです」  と、答えながらしおりや資料を鞄に詰めていく。 「大したことはないようですが、歩くと痛むそうです」 「ということは、足をくじいたのかしら?」 「だと思います。怪我の箇所までは聞き取りませんでしたが、恐らく。雰囲気から、骨折まではしていないようですが……現地で確認してから、病院に連れて行くか旅館に連れ帰って処置をするか判断しようと思います」 「そうね。よろしく」 「はい」 「清水の近くの見回りは……夏川先生たちね。私から連絡しておくわ。具体的な場所は分かる?」  テーブルに置いていた老眼鏡をかけながら見回りの担当表を確認した教頭にそう聞かれる。 「三寧坂だと言っていました。足を怪我しているのなら、そう遠くには行っていないでしょう。……あ、七組の吉住たちの班です」 「三寧坂、七組、吉住……」  担当表の余白に、教頭が小さく書きつけた。そのやり取りの間に怜ニの身支度は終わっていた。ジャケットの肩に鞄をかけながら立ち上がる。 「では」 「ええ、気をつけて」  最後に会釈をして、怜ニは足早にその場を立ち去った。  旅館の目の前は地下鉄東西線の駅だ。エントランスを出て歩道を横切り、地下への階段を降りる。ホームに辿り着いたところで折よく電車の接近がアナウンスされた。行き先を確認して乗り込む。目的の東山駅までは二駅なのですぐに着いた。降車して地上に上がり、東大路で南行きのバスを待つ。本数が多いのでさほど待つこともなくバスにも乗れた。観光シーズンの道路は混んではいたが、それなりに流れていた。十分ほどで清水道のバス停につく。  ちょうどそこで、胸ポケットに入れておいた携帯電話が鳴った。  表示された名前は『教師3』だった。さすがに個人名までは入力してくれていないのだ。とはいえ、十中八九夏川だろうと予測しながら通話ボタンを押す。 「はい」 『あ、怜ニ……じゃないや、赤坂先生』  怜ニと夏川は教師になる前、まだ大学生だった頃からの友人だ。プライベートでは下の名前で呼び合っている。怜ニはその使い分けに失敗したことはないが、夏川は二回に一回は間違える。それを今さら咎めるつもりにもならず、怜ニは小さく苦笑するだけで流した。 「夏川先生。教頭先生から」 『うん、聞いた。んで、今さっき吉住たちの班と落ち合ったとこ』 「そうですか。吉住の様子は?」 『元気だよ。小さい子が坂道で転びかけたのを庇って、階段踏み外したらしい。って言っても、転げ落ちたとかじゃなくて、子供抱えて踏ん張った時に足首を痛めたみたいだな』 「そう……」  ほっと安堵の息が漏れた。夏川と通話しながら参道を三寧坂に向かって歩いていく。人出が多いので、その合間を縫って急な坂道をのぼる。 『参道から三寧坂に入ってすぐのとこに吉住といるから。分かんなかったらまた電話して』 「ええ、分かりました」  最後までフランクな夏川にあくまで教師モードで対応して怜ニは通話を終えた。坂道を三寧坂に向けて急ぐ。清水坂と五条坂の交わる三叉路から北へ細長く降りていく石畳の階段が三寧坂だ。その階段に差し掛かったところで、怜ニはキョロキョロと辺りを見回した。 「赤坂先生!」  と、よく通る声で名前を呼ばれる。そちらに目をやると夏川が道の端で大きく手を振っていた。明るく人懐っこい雰囲気で、怜ニほど整っているわけではないが人好きのする爽やかな容姿をしている。背が高いので人混みの中にいても簡単に見つけられた。  つばさも含めて生徒たちの姿は見えなかった。どこにいるのだろうかと周囲を見回しながらそちらに近づく。人混みを縫って近づくと、夏川の横には小柄な国語教師である佐久間がいて、二人の足元の一段高くなった石段の上につばさが座っていた。 「お疲れ様です」  怜ニが近づくと、佐久間がぺこりと頭を下げた。 「お疲れ様です」  と返して、怜ニはつばさの目の前に屈み込んだ。目線を合わせて 「大丈夫?」  と、問いかける。 「大したことないです」  と、少し憮然とした表情でつばさが答えた。怪我をして、その対応に大人が出てきたことに少なからず自尊心が傷ついているのかもしれない。高校生とはそういう年頃だ。 「子供を庇ったんだって? 偉かったね」  微笑みかけて頭をくしゃくしゃと撫でる。これはこれで反発されるかもしれないと、やってから気づいた。へそを曲げさせたら可哀想だなと心配したが、つばさは心もち嬉しそうに笑った。杞憂で済んで怜ニは顔には出さずに安堵する。 「ちょっと怪我見るよ。どっち?」 「右です」  と、つばさが石段に座ったまま右足を少し前に出した。スニーカーと靴下を脱がせて、制服のズボンの裾をたくし上げる。  きれいな(くるぶし)があらわになった。足首を片手で支えて、もう片方の手で足を回させる。左右の背後から夏川と佐久間が覗き込んでくるのが分かった。つばさの方はそれほど痛そうな様子もない。 「骨折まではしてないね。旅館で処置して様子を見ようか」 「はーい」  靴下とスニーカーを履かせ直して立ち上がる。それから夏川に向き合った。 「タクシーで旅館に連れて帰るよ。同じ班の子たちは?」 「次の観光地に行かせた。あんま待機させとくのも可哀想だったし」 「そっか」  であれば、後はタクシーを拾うだけだ。 「五条坂を少し下ったところにタクシー乗り場がありますよ」  と、私物のスマホを操作しながら佐久間が教えてくれた。 「ありがとう」  と微笑んでつばさに向き直る。 「立てそう?」  手を差し出すと、つばさは素直にその手を取った。立ち上がってもふらつく様子はない。これならタクシー乗り場までは歩けそうかなと怜ニは判断する。 「タクシー乗るまではついてくよ」  という夏川達と一緒に移動する。三寧坂から清水坂に戻り、三叉路を五条坂の方に下る。佐久間の言葉通り数メートル下ったところにタクシー乗り場があった。待機列はできておらず、スムーズに乗車できた。 「じゃあ、また夜に旅館で」  と、夏川たちと別れた。 「……先生たちって個室なんだ?」  怜ニに()てがわれた小さめの個室の入り口で中を見渡してつばさが言った。生徒たちは六人から八人ずつの大部屋なのだ。 「うん。見回りとかでそんなゆっくりは寝られないけどね。はい、ここ座って」  備え付けの座布団を二枚重ねで厚さを出して、そこにつばさを座らせた。本当は椅子のほうが処置しやすいのだが、あいにく安い和室なのでない。  つばさが素直にそこに座った。怜ニはその正面に屈んで足首を確認する。 「痛みは?」 「もうほとんど」 「そっか。テーピングはいらないかな。念のため湿布だけしとこうか」 「はい」  持参した救急箱から湿布を取り出して、患部に貼り付ける。それだけで処置は終わってしまった。つばさの正面に胡座をかいて座りなおす。 「これなら観光続けられたね」  と、救急箱を片付けながら話しかけた。 「今からでも合流する?」  片付け終えた救急箱を脇に避けて、腕時計に視線を落としながら重ねて尋ねた。生徒たちは午後五時に旅館に帰ってくることになっている。その時刻までには二時間弱ほどあった。これから合流してとなると一時間ほどしか観光はできないだろうが、旅館でのんびりと待つには少し長い。 「う〜ん……ムリせずのんびりしてます」 「残念じゃない?」 「お寺や神社ばっかりだしなぁ。それなりには楽しかったけど。明日がダメになる方がイヤかな」 「高校生男子だとそんなもんか。この様子なら明日は大丈夫だよ」 「うん。なら良かったです」  と言って、つばさが嬉しそうに笑う。年齢相応の邪気のない笑顔だ。怜ニもつられて小さく笑った。  ふと、つばさの顔から笑顔が消えた。笑顔になった怜ニの顔を真正面から見つめてくる。 「ねぇ、先生」  処置のために投げ出していた足を引いて、つばさが腰を浮かせた。両膝を畳について、片手を怜ニに向けて伸ばしてくる。 「入学式の日に俺に言った言葉覚えてます?」  伸びてきた手は、怜ニの頬に触れる寸前で止まった。 「入学式?」 「他の誰かの為ならともかく……ってやつ」 「ああ」  そう言われればそんなことを言ったような気がする。男が自分のことで喧嘩をするな、と。 「言ったね、そう言えば」 「あのときの先生、本当に格好良かった」  幅の広い二重に縁取られた左右対称の大きな瞳が熱を孕んで潤み、怜ニだけを真っ直ぐに見つめている。指先は頬に触れる寸前で宙に留まったままだ。 「あの先輩をぴしゃりと黙らせたのも格好良かった。あの時から先生のことが好きで、先生みたいになりたいって思ったんだ」  それは憧れじゃないのか、と思いつつ怜ニは口には出さなかった。憧れと恋の境目が曖昧なことは怜ニも知っている。若い時は特に。 「だから今日、頑張ったでしょ?」 「今日?」 「喧嘩じゃないけど、知らない子供を庇ったよ。ほんとは自分も怪我せずに助けたかったけど……でも、助けた子には怪我させなかった」 「うん。それは偉かったね」  そう言って、怜ニは自分の頬に触れるか触れないかの距離で止まっているつばさの指先を握った。つばさの瞳に一瞬期待するような色が浮かんだが、怜ニは何食わぬ顔でその手を降ろさせた。床につけさせる。それからつばさの頭をくしゃくしゃと撫でた。子供にするように。  つばさが唇を尖らせた。形の良い唇を子供のように突き出している。 「ちぇーっ、ご褒美ぐらいちょうだいよ」 「あげてるだろ? ほら、いい子いい子」  さらにくしゃくしゃと髪をかき混ぜる。 「もう! 止めてよ」  と、つばさが体を後ろに引いた。その仕草に笑いながら、怜ニは内心で安堵する。  心拍がいつもより少し早い。体の温度も少し高くなっているような気がした。何より心が動揺していた。  つばさの瞳は実らなかった片思いの相手に本当によく似ている。あの人は一度だってこんな風に熱のこもった眼差しで自分を見つめてくれはしなかった。あの人の目は、いつだってひたすらに穏やかで優しいばかりだった。  こんな風に見つめられたかったと、忘れていた渇きを思い出す。その動揺を顔に出すほど若くはなかった自分に、そしてそれに気づくほど大人ではないつばさに、怜ニは内心で安堵していた。 「じゃ、ロビーラウンジで待機してようか」 「ロビーラウンジ?」 「ご褒美がほしいんだろ? パフェとコーヒーぐらいなら食べさせてあげるよ」  言いながら立ち上がり、つばさも立ち上がらせる。 「自腹で」  と、付け加えた。少し不満そうだったつばさが気を取り直したように笑った。 「先生と二人でお茶できるなら、怪我した甲斐もあったかな」  と、つばさが(うそぶ)く。教頭先生もいるけどね、というのは口に出さず、怜ニはつばさと連れ立って部屋を出た。
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