第三話

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第三話

 ねぇ先生、俺じゃダメですか? とは、聞けなかった。  教室の窓の外には、静かに雨が降っている。 「行かへんの?」  と、不意に声をかけられてつばさは物思いから浮上した。声のした方を見上げる。 「部活」  と。つばさの机の斜め前に立った佐伯が高い位置から見下ろしてくる。  こいつ多分、先生より身長高いよな……と、今さらなことをつばさはちょっと羨ましく思った。 「あー、それがさ」 「うん?」 「進路希望の調査票出し忘れてて」 「あー、昨日までのやつやんな?」 「そう」  と、つばさは机の中からそのプリントを取り出した。クラスと名前だけを埋めたそれを机の上に広げる。 「絶対に今日中に出せって」 「珍しやん、吉住がそういうん忘れんの」 「悩んでるうちに期限来てた」 「悩んでんの?」  と言いながら、つばさの前の席の椅子を佐伯がガタガタと引いた。横向きに座って上半身を(ひね)るようにしてつばさの方に顔を向ける。 「まあ……」 「岡大ちゃうん?」  県内の国立大学の名前を出した佐伯に向かってつばさは少し躊躇(ためら)いつつもこくりと頷いた。この高校は県内ではそこそこの進学校だが、都会の名門私立のように旧帝大や医学部に大量に進学する程でもない。大半が県内か近県の国立大に進学する。二年の学期末の進路希望ではとりあえず岡山大学と書く生徒が大半だ。 「佐伯は? もう出したんだろ?」 「俺は京都」 「京大?」 「うん」 「お前、頭いいもんなぁ」  さらりと出された難関大学の名前に感嘆する。元々大きな口をさらに大きく開けて、佐伯がへらりと笑った。奥歯までがちらりと覗く。謙遜する気はないらしい。佐伯が学年で一桁台から落ちたことがないらしいのはなんとなく知っているので、謙遜されたところで今さらなのだが。 「まあ、俺はずっと関西帰りたかったから」 「そうなんだ」  それは初耳だった。あまり詳しく知らないが、佐伯が小学校の時に岡山に越してきたとは聞いている。 「関西ってのは知ってたけど、京都出身だったんだ」 「や、出身は兵庫やね。大阪寄りの」 「なんで京都? 偏差値で?」  出身地に戻りたいというなら神戸か大阪だろう。そこで京都というのは、関西で合格圏内ならより難しい方を、ということだろうか。 「ん〜、まあ……ちょっと」  唇の薄い大きな口を、言いにくそうに佐伯が歪めた。 「なんか言いにくいこと?」 「や、そういうわけでもないんやけど。まあええやん、俺の話は」  と、佐伯が机の上のプリントを細長い指先でトントンと突くように叩いた。 「それより、せんせぇに相談してみたら?」  と。悪巧みを伝授するように目を細めて笑う。 「先生? 担任の?」 「ちゃうやん。赤坂せんせぇやって」 「赤坂先生?」  こくり、と、佐伯が頷く。 「進路相談ついでにさ、せんせぇがなんで養護教諭になろうと思たんかとか、どんな高校生やったんかとか、大学んときはどうやったんかとか……進路の参考にしたい言うたら昔の話も聞けるやろ? 養護教諭なんやから生徒の相談乗るんも仕事やん? 赤坂せんせぇ優しいし嫌な顔せんと付きおうてくれるやろ」 「えーでも、進路の一つも自分で決められないの子供って思われそうじゃない?」  赤坂に対する恋心を明確に打ち明けたことはないが、特段隠してもいないので、いつの間にかそれは二人の間では暗黙の了解と化していた。佐伯は表立って首を突っ込んでは来ないが、たまにこうしてアドバイスをくれる。  今回のアドバイスはあまり気乗りする内容ではなかった。少しでも大人だと思われたいのに、進路に悩んでいるところなど見せたくはない。 「アホやなぁ。子供なんやから、それ最大限に利用せんと」  人の良さそうな笑顔のまま、佐伯が呆れた声で言う。 「真面目な話って距離縮まる気ぃせぇへん? さらにせんせぇの昔の話も聞けんねんで? 打ち明け話の一つも聞けるかもしらんし、あわよくば過去の恋愛話も聞けるかもしらんやん」 「なるほど……」 「どう転んだって生徒で子供なんは覆らんのやから、大人同士やと使われへん手ぇ使わんと」  そう言って、念を押すように佐伯が進路調査票を指先で突いた。つばさは毒気のない友人の笑顔をまじまじと見つめてしまう。 「お前賢いな……」  勉強が出来るのも空気が読めるのも知っていたが、年上の口説き方まで指南してくれるとは思っていなかった。改めて呟く。 「知っとる」  と、目を細めて佐伯が笑った。 「失礼します」  と、声をかけて引き戸をあける。保健室特有の消毒液の匂いが鼻についた。 「いらっしゃい。今日はどうしたの?」  窓際の事務机に座っていた赤坂が顔を上げてそう言った。白いカーテンはいつものように大きく開けられていて、その向こうには中庭が見える。二月の中庭に花はあまり咲いていない。人の背丈ほどの高さの木が小さな黄色い花をつけている程度だ。その木はいま、みぞれ混じりの冷たい雨に打たれて震えている。 「また怪我でもした?」  そう言って首を(かし)げながら、赤坂は開いていたノートパソコンをパタンと閉じた。緩やかにウェーブした髪が動きに合わせて小さく揺れる。 「今日は先生に相談したいことがあって」 「相談?」 「はい。……進路の」  と言いながら、つばさは持参したプリントの上部を摘んで赤坂に向かってピラリと見せた。 「そういうことね。いいよ、そっちのソファに座って」  頷いて、赤坂が入り口脇のソファセットを指さす。 「ありがとうございます」  快く了承してもらえたことに安堵しつつ、つばさはソファに腰掛けた。その正面に赤坂が座る。  華やかで上品な外見の赤坂が、学校備品の安っぽいソファに腰掛けている姿はなんだか少しちぐはぐだった。すらりと背の高い赤坂が長い脚をもて余すように組む。そんな仕草も格好いい……と、つばさは目を奪われた。はやく大人になって先生よりももっと格好良くなりたい、と、焦れったく思う。 「で?」  と、ぼんやりと見惚れていたつばさは赤坂に声をかけられた。はっと我に返る。 「進路相談って具体的には? どんなことで迷ってるの?」 「あ……えと……」 「うん」 「大学は……決まってるんですけど」 「そうなんだ。ちなみにどこなのか聞いていい?」 「岡大です」  という答えは想定内だったらしい。特段表情を変えることもなく、赤坂が小さく首肯する。 「そこまで決まってるなら後は学部……かな?」 「はい。理学部と工学部で迷ってて」  正直、このタイミングの進路調査であれば、どちらを第一希望にしても大差はない。つばさ自身もそれは分かっている。だからとりあえず偏差値の順に理学部を第一希望、工学部を第二希望にして出そうかとも思っていたのだ。ただなんとなく踏ん切りがつかずに寝かせているうちに、提出期限が来てしまった。 「理学部と工学部……か」 「参考に先生のこと聞いてもいいですか?」 「俺?」 「はい」 「俺は理学部でも工学部でもないよ?」  垂れ目気味の甘やかな瞳に不思議そうな色を浮かべながら赤坂が小首を傾げた。下心がバレたかもしれないとつばさは思った。とはいえ、ここで引いても今更だ。 「でも、進路に悩んだりはしませんでした?」 「……したね」 「そういう話を聞きたいんです。先生はなんで養護教諭になろうと思ったんですか? 男の人で養護教諭って珍しいですよね?」  保健室の先生と言えば女性のイメージが強い。実際、小学校でも中学校でも、養護教諭は女性だった。 「ストレートに聞くなぁ」  と、赤坂が苦笑する。シャープな頬に笑窪(えくぼ)が浮いた。 「なにか切っ掛けってあったんですか?」 「う〜ん……」  笑顔を引っ込めて、赤坂がつばさの瞳を真っ直ぐに見た。そのまま迷っているような数秒間の沈黙があって、赤坂がおもむろに口を開く。 「高校の時に……まあ、俺にもいろいろ悩みとか不安とかあって、それを真剣に聞いてくれたのが保健室の先生だったんだよ」 「悩みとか不安?」  高校生だった赤坂はどんなことを悩んで、どんなことを不安に思っていたのだろうか。素直に知りたいと思った。他でもない、好きな人のことだからだ。 「まあ、いろいろとね」  けれどそれは軽く流されてしまった。 「で、俺もそうなりたいな……と。高校生らしい単純な理由だよ。いつか、その時の俺みたいに悩んでいる子の話を聞いて、少しでも力になってあげたいな、って」  赤坂が甘やかな垂れ目を(すが)めた。過去を懐かしむ目だとつばさは思った。つばさのことを見ているようでいて見ていない。急に不安になった。 「その先生のこと……好きだった?」  聞かずにいられなかった。赤坂がきょとんと目を見開いた。それから緩やかに笑う。 「好きだったよ、ものすごく」  どくん……と、心臓が軋んだ。赤坂は過去形で言った。それはもう遠い過去なのだと、はっきりと伝わる言い方だった。それでも、赤坂が過去に誰かを好きだったという事実は少なからずつばさの心を引っ掻いた。年齢差を考えればあって当然の過去だと分かっていて、でも納得はできなかった。 「優しく朗らかで、でも厳しかった。よく怒られたよ。……当時は、二人目の母親みたいだなってちょっと思った」  と言って、赤坂が人の悪い笑みを浮かべた。 「は……はおや?」  からかわれた、と、つばさは気づく。 「定年間際の女の先生でね。肝っ玉母さんって感じの人だった。鬱陶しがる生徒もいたけど、大半の生徒からは人気があったな。俺も大好きだったよ」 「……そうですか」  とだけ返して、むっと口を引き結ぶ。赤坂がくつくつと肩を震わせて笑う。 「ごめんって」  と謝りながらも赤坂は笑いを止めない。面白くなくて押し黙ったつばさだったが、聞きたいことを聞けていないことに気づいた。このままでは冗談の雰囲気に流されてしまう。まだ少し憮然としながら、つばさはもう一度口を開いた。 「ねぇ、じゃあ、先生はどんな人が好きだった?」  じっと赤坂の目を見つめながら問う。 「肝っ玉母さんとかじゃなくて……ちゃんと好きな人はいた? 先生はどんな人に恋をしたの?」  赤坂の笑い方が、つばさをからかうものから苦笑に変わった。答えたくないだろうことを聞いたのは(はな)から分かっていた。だからこそ、答えをはぐらかそうとする雰囲気を見逃さなかった。 「ねぇ」  強く視線を注ぎながら、念を押すように問いかける。 「進路相談に来たんじゃなかったの」 「……すみません、それは口実でした」  素直に謝ると、赤坂が下がり気味の眉をひょいと上げた。 「そんな素直に認めると思わなかった」  と、面白がる声で言う。 「ご褒美にちょっとだけなら教えてあげるよ。何聞きたいの?」  と。促すように小首を傾げる。 「恋人はいますか?」 「それは秘密」  にこりと笑って跳ね除けた後で、赤坂が面白がるように笑う。 「二年近く口説いてて今さら聞くの」  と、耐えかねたように細い肩を震わせる。 「ずっと聞きたかったけど聞けなくて……」  言い訳のように呟くと、赤坂がまた少し笑った。華やかさと大人の落ち着きを兼ね備えた顔が、笑うと少し子供っぽく崩れる。笑われているのは少し悔しいが、赤坂の笑顔は好きだ。 「じゃあ、好みのタイプは?」 「う〜ん……結構バラバラかな。好きになった人がその時の好みのタイプだよ」 「今までで一番好きだった人は? どんなタイプだった?」  雑誌のインタビュアーにでもなったみたいだと思いながら、問いを重ねる。 「どんなだったかな……」  呟いて、赤坂は目を(すが)めた。遠くを見ている目だ、と、つばさは思った。さっき、高校の時の保健室の先生の話をしてくれた時よりも、もっと遠くを。  赤坂の甘やかな垂れ目に、今、自分は映っていない。その事実はつばさの心に大きく引っかき傷を作った。赤坂には昔、好きな相手がいたのだ。思い出そうとするだけで、目の前のつばさから意識が外れてしまうほど好きだった相手が。 「忘れちゃったよ」  何か答えが来るかと待っていたが、結局、赤坂はそれだけ言って笑った。その目はつばさに戻ってきていた。 「俺……」 「ん?」 「なんでもないです」  聞きたい言葉を口に出せないまま、つばさは誤魔化すように笑った。 
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