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第四話
本気の恋が怖いものだと、この人に会うまで知らなかった。
「はいお疲れ〜!」
夏川の音頭で三つのグラスが軽くぶつかりあった。一つは夏川、もう一つは怜ニ、そして最後の一つは二人の先輩である宮森のものだ。
大学時代から友人同士だった怜ニと夏川は、偶然、最初の配属先も同じ高校だった。そこで物理教師をしていたのが五才年上の宮森だ。温厚で控えめな人柄で、教師一年目で右も左も分からない怜ニと夏川のことを何かとフォローしてくれた。今は県内の別の高校に勤務しているが、プライベートでの親交は続いていて年に数回は三人で集まって飲む。
特に三月の終業式が終わった春休みの飲み会は恒例だ。一年間のお疲れ様と、来年度も頑張ろうという意味を込めて毎年こうして集まっている。
「今年も一年、無事に終わったな〜」
勢いよくビールを呷り、その泡を口の端に残したまま夏川が言った。駅前の安い半個室の居酒屋は混み合っていて賑やかだが、夏川の声はそんな中でもよく通る。
「だな。二人ともお疲れさん」
宮森もグラスを持ったままで笑った。涼し気なその目尻に笑い皺が浮く。出会った頃はお互いに若かった。そうかもう二十年近い付き合いになるのかと、自分もビールを煽りながら怜ニは思った。
「そう言えば、二人は異動の話はありそうなのか?」
頼んだ料理に箸を伸ばしながら宮森が怜ニと夏川に聞いた。
「俺はなさそうかな」
と、まずは怜ニが答えた。今の学校には五年勤務しており、このまま異動がなければ六年目になる。主要五教科の担当教師ならいつ異動の話が来てもおかしくない年数だが、各校に一人しかいない養護教諭の異動スパンは長い。
「俺もまだかなぁ。特に今は二年の担任してるし」
と、三年目になる夏川が言った。怜ニと夏川が勤務している高校は、学年団の教師がそのまま持ち上がりになることが多い。特に三年生は受験があるので二年生を担当していると異動の話はまず来ない。
「なら三人とも残留かな」
ということは、宮森にも異動の打診は来ていないのだろう。
「あれ、宮さんもう長くない?」
人との距離が近い夏川は怜ニのことを『怜ニ』と下の名で呼ぶように宮森のことを『宮さん』と呼ぶ。怜ニもそのぐらいの距離感で接してみたいと思ったことはあったが、そんな度胸は持てなかった。校内では『宮森先生』、プライベートでは『宮森さん』と無難に呼んでいる。
「ああ、次で七年目かな」
「じゃあそろそろあっても良さそうですけど」
数学教師の夏川ほどではないが、物理教師の宮森もそれなりに異動はしやすい。若手の頃より異動頻度は緩やかになったとは言え、七年は長期の部類に入る。
「それに宮さん、今年は三年生持ってたよね? ちょうどいいタイミングなんじゃないの?」
怜ニの疑問に夏川も同調した。宮守が人の良さを感じさせる仕草で頭を掻く。
「打診はされたんだけどな。一年待ってもらえないか頼んだんだよ。それが聞いてもらえそうな雰囲気でな」
「一年? なんで?」
怜ニも気にはなったが咄嗟には聞けなかった質問を、全く躊躇なく夏川が尋ねた。こういうところがありがたいと怜ニは思う。夏川がいなかったら、宮森との交友関係がここまで続くこともなかったかもしれないーーそれが良かったのかどうかは分からないが。
「うちの息子が来年受験なんだよ」
「息子さん……って、元奥さんのとこの?」
宮森は離婚歴があり、別れた妻のところに息子がいるのは怜ニも夏川も知っている。とは言え今の夏川の聞き方は不躾過ぎないかと怜ニは思ったが、当の宮森は気にした様子もなく夏川の言葉に頷いた。
「ああ。俺の出番はあんまりないかもしれないけどな。頼られたら最大限のフォローをしてやりたいんだよ。でも、異動一年目は何かと落ち着かないだろ?」
「なるほど。ていうか、相談が来るような距離感なんだ」
「ああ、息子とは今でも月に一度は食事に行くし、真希とも事務連絡程度のやりとりは普通にしてるよ。息子関係の報連相はマメにくれる」
それは初耳だった。夏川も
「へぇ〜」
と目を大きくしているので知らなかったのだろう。
宮森には、現在、一緒に暮らしているパートナーがいる。その上で、別れた妻と連絡を取り合うことに対する後ろめたさのようなものは宮森からは全く感じられない。宮森の性格も考慮するとパートナーも了承済みだと言うことだろう。
パートナーとの関係は良好なようだ。
……じくり、と、古傷が痛むような気がした。
採用一年目の怜ニが宮森と出会ったとき、宮森はすでに既婚者だった。
宮森は明るく気さくで、見るからに人が良さそうだった。派手さはないが、左右対称の綺麗な目をしていた。線の細さはあの当時から変わらない。
その朗らかな人柄に救われて、怜ニは気づけば恋をしていた。
どこの学校にも不登校の生徒というのは一定数いる。養護教諭である怜ニは、そういった生徒や保護者の対応を任されることが多かった。メンタルはタフな方だと思っていたが、大学を出たての若かった怜ニにとって、それは大きなプレッシャーとストレスだった。
今では同世代が多くなったが、当然ながら当時の保護者は怜ニよりも十も二十も年上だった。自分の親とそう変わらない年齢の相手から感情的に詰られることも多かった。不登校の我が子を心配するあまりだと分かってはいたが、今ほど上手くは宥められなかったし、受け流すこともできなかった。
そんな怜ニに
「あんまり抱え込まないようにな」
と、声をかけてくれたのが宮森だった。
何度も話を聞いてもらった。その度に慰めて励ましてくれた。難しい保護者との面談に同席すると申し出てくれたのも一度や二度ではない。
宮森の左手の薬指にシンプルなプラチナのリングが嵌められているのは分かっていて、それでも、どうしようもなく恋に落ちていく自分を止められなかった。
「……怜ニ?」
隣からひょいと顔を覗き込まれて、怜ニははっと我に返った。物思いに沈んでしまっていたらしい。
「どした? 酔ったか?」
「大丈夫か?」
二人から視線を向けられて、怜ニは慌てて笑顔を浮かべた。
「なんでもないよ」
と、緩やかに首を振る。
「ちょっと疲れてるだけ」
と。肩を竦めると、二人がそれぞれ苦笑した。
「疲れも年々抜けなくなるよなー」
「だな。若い頃みたいなムリは出来なくなったよ」
二人が自嘲気味に笑う。怜ニも合わせて苦笑した。
自分は若い頃も無理はできなかったな、と、ちらりと思う。既婚者の宮森に言い寄るほど愚かにはなれなかったし、宮森が離婚した後も結局想いを伝えるだけの勇気は湧かなかった。
昔から怜ニは同性にも異性にもよくモテた。ゲイ寄りのバイである怜ニは、言い寄ってくる中から気の合いそうな相手を男女問わず選んでうまく付き合ってきた。大学の四年間、そういうフランクな恋愛ばかりを楽しんできた怜ニは知らなかったのだ。本気の恋があれほど足の竦むものだとは。
『先生はどんな人が好きだった?』
『今までで一番好きだった人は?』
宮森や夏川と当たり障りのない会話を続ける怜ニの頭の中につばさの声が反響する。
宮森への恋はもうずっと前に眠らせた筈だった。最近は宮森の顔を見ても、胸が疼くことも出会った頃を思い出すこともなくなっていた。
なのに今日に限って過去に引きずられるのは、つばさにそんなことを聞かれたからだ。どこか宮森に似ているつばさに。
……底抜けにお人好しな人だよ、と、心の中のつばさに答えを返す。いつだって優しくて、自分のことより他人優先で、朗らかに笑っている人。
そんな宮森につばさはどこか似ている。とくに目元だ。でも性格は結構違うなと、ふと思った。明るく朗らかなように見えて、結構勝ち気で頑固なところがつばさにはある。
ふと、初めて下の名前で呼んだ時のことを思い出した。
『紛らわしいから、俺のことは下の名前で呼んでください』
臆する雰囲気もなく真っ直ぐにそう言い切った。そのくせ、怜ニが本当に『つばさ』と呼ぶと照れたように笑っていた。
あのときの細くなった目尻を思い出して、怜ニは自分でも気づかないまま笑みを浮かべていた。
それは苦笑いでも自嘲の笑いでもなかった。
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