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 県立西影高等学校。漆間の勤務地だ。関東の中では中の上の偏差値であったが、漆間がかつて通っていた高校よりも有名塾が弾き出したランクで見れば五、六は上であった。ここのところ名門大学への進学率が上がっている。男女共学ではあるが、若干女子の方が多い。  いつも職員会議が始まる十分前に出勤するため、デスク上には生徒の出し遅れた課題が積まれていることが多い。どれにもきちんと謝罪の付箋が貼ってあった。十分間の職員会議が終わると、クラスを受け持つ教師はそれぞれに散る。すれ違う先生方と挨拶を交わしながら、流れに乗ろうと次の授業のものを持って出ていこうとした漆間に、岸本から声がかかった。二年生の学年主任だ。百七十にかろうじて達するかと思われる背丈に、ぽっこりとつき出た腹回り。髪は後頭部にしか残っていない。  隣に立った肩幅の広い先輩教師は、林藤さんのことだけど、どうにかなりそうかい? 声をひそめて尋ねた。漆間は肩をすくめる。一週間に二度は訪ねるようにしていますが、何しろ反応がありませんので。片腕に抱えた資料に目を落としながら、同じように声をひそめてぎこちなく答える。そうか、すまないがよろしく頼むよ。言い残して流れと反対方向に引き返す。漆間は廊下に出た。  二年二組のドアを開ける。おしゃべりをしている生徒はいなかった。ある音といえば、ページをめくるときの紙、文字を書く度に机をたたくペン先、消しゴムで消すときに揺れて床にぶつかる机の脚など。誰もが自分の席に座り、それぞれに勉強している。 国公立文系クラス。  二年生から、クラスはそれぞれの進路別に振り分けられる。全六組からなる二年生は、一、二組を国公立文系、三、四組を国公立理系、五組を私立文系、六組を私立理系としている。国公立のクラス分けも、成績順になっている。もちろん生徒たちには成績順で分けられていることなど微塵も知らされていないはずだが、一学期の期末テストが終わったあたりから、明確に番号が遅いクラスの国公立希望者の勉強態度は変わっていた。  各教科クラス平均と科目内一位の生徒の名はテスト返し時に全クラスに公表される。漆間が今まで赴任した高校にもクラス分けに成績が反映されていないことはなかった。だが使われ方が違う。同じ志望クラスが二つ以上できるならば、同じくらいの成績になるように振り分けていた。  八時四十分から五十分まで、本を読むのが西影高校の習慣になっている。教卓の前で本を広げつつ、教室全体に視線を巡らせる。廊下側の一番後ろの席で目が止まった。空席になっている。林藤彩芽。脳裏をよぎるのは、まだどこか幼さの残る童顔。毛先が肩をかする程度に伸ばされた黒髪。着ているのは半袖のブラウスだった。担任教師が教え子の少女を見たのは、今年の夏休み後の始業式が最後になる。  十分が終わり、朝のショートホームルームを始める。不登校以外の欠席者がいないことを確認して、手短に連絡事項を伝え、ショートホームルームを締める。持ちものをまとめた。一限は、私立文系クラスで現代文の授業だ。片腕に抱えて出ていこうとしたとき、先生。控えめに呼び止められた。ドアの取っ手に伸ばした手が中途半端な高さで止まった。振り返る。 「朝霧? どうかしたの?」  うつむいていたので、胸元にまで届く黒髪が少女の顔を隠した。両手でチェックのスカートを強く握り締めている。しわが寄っていた。  チャイムが鳴る。漆間が口を開いたとき、うつむいていた顔が勢いよく上がった。眉を寄せてかすかに口を開いている。あの、と言ったはよいが、突然眉から力が抜けて、言葉が止まる。  ドアが開いた。取っ手に伸びていた手が、反射的に引っ込む。生徒からドアの方へと目が行った。ああ、まだホームルーム中でしたか。わかりきった嫌味を言うのは二年三組の新人担任だった。すいません、と軽く謝りつつ目を戻す。朝霧の後ろ姿は自分の席に向かっていった。
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