数え棒

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 運命の人は、春風に乗ってやってきた。その人がトランクを持ってホームに降り立った時、わたしは、ベンチから立ち上がって、田中先生ですか、と尋ねた、あらかじめ、履歴書をいただいていたからもあったが、想像していた通りの25歳の青年であった。田中先生は、わたしの前に立ち、髪をくしゃっとかきあげると、ご厄介になります、とおっしゃったので、わたしはこちらこそ一年間よろしくおねがいいたしますと頭を下げた。  田中先生は非常勤講師として高校に、国語の先生として赴任してくださるということだった。わたしは、田中先生の下宿に案内した。そこは線路沿いの四階建てのアパートで、四階の端っこだった。荷物は、もう運び込んでいた。先生は東京から来られたのであって、文学者をめざしているようなところもあるらしかった。わたしは、田中先生に運命を感じたけれども、それは、わたしだけの秘め事であって、淡々と時間は過ぎていった。わたしは数学の教師として勤務していた。田中先生の標準語は、やはり、わたしたち関西人にとっては、あたまがよい人が話す言葉のようにも思えたし、実際先生は賢かった。わたしはパソコンの上を動く先生の長くて白い指が好きだった。人との出会いは、双曲線のようですね、と田中先生は、わたしにあるときささやいた。わたしは、電車を乗り換えるようなもののような気がすると答えた。田中先生は、じゃがいものスープをつくりすぎたんですよ、といった。それを冷蔵庫に冷やしているんです。よかったら、食べにきませんか、とつげた。わたしは、じゃがいものスープには、魔女の店のパンが合いそうにおもうんだけれども、買ってからお伺いします、というとお待ちしております、ということであった。夕方グランドが夕日に染まるとき、わたしは学校をあとにして、魔女の店に向かって歩き出した。そうして魔女の店でブドウパンを買った。それから、田中先生のアパートまで歩いて行った。ベルを押すと田中先生は、出迎えてくださった。テーブルには、スープと、ハンバーグがあった。わたしはパンを渡した。すごくすごくしずかなせいかつのふんいきが漂っている部屋だった。わたしは、ワインをいただきながら、ディナーを味わった。すごくおいしい、ほっぺがおちそうというと、田中先生は、ありがとう、とおっしゃった。わたしは、なんだかめまいがしてしまって横になりたいというと、奥の、和室に座布団を頭に横になりなさいといって布団をかけてくださった。田中先生がふわっと布団をかけてくださって、わたしは、そのまま暗闇に引きずられるように眠ってしまった。次の日は休日だった。目をあけると、田中先生は机に向かって座っていた。わたしは、先生、おじゃましすぎてしまいましたけど、もうおいとまします、と告げた。先生は、朝ごはんでもどうですか、とおっしゃったのだけれども、わたしは、あわてて失礼した。それで家に帰って、少し一人で田中先生のことを考えていると胸がぎゅっとして、ああ、わたしのひとりよがりの恋のはじまりはじまりと、感じた。わたしは、恋を田中先生にしたんだけれども、ずうずうしく恋をしていることをつげないほうがいいと考えた。ひとりで、教材をつくりながら、田中先生とのもし、を少し空想した。植物園に一緒にいって、食虫植物をみたいな、と思った。それで、わたしは、昨日のお礼もかねて、来週、か、再来週、お時間があったら、一緒に植物園にいきませんか、とメッセージを送った。田中先生は、OK!というたぬきを送ってくださった。わたしは、それだけで、すこし春の香りを胸の中に感じた。職員室で田中先生が隣にいるのだけれども、そのときは、わたしは、数学の先生であって、田中先生も国語の先生として淡々となさっていた。不思議なものだ。こないだまで空席だったところに田中先生が座られただけで、すべての風景は、かわってしまったような気持ちになるものだからだ。日曜日に、田中先生と植物園にでかけた。食虫植物を一緒にみた。田中先生は、残酷な感じがする。おびき出してとらえるなんて、とおっしゃった。わたしも、そういわれたら、そんなきもちがして、一緒に食虫植物をみましょう、なんていわないようにこれからはしよう。もっと女性らしい、蘭の花が好きだ、とか、そんな風にいおう、と反省をした。それで、わたしはオズの魔法使いでライオンが眠ってしまった花の香りのことを想像した。わたしも田中先生が眠ってしまうような甘い香りを出すような女性になりたいな、って考えた。そんなとき、社会科の先生が、亡くなった。自殺だった。わたしは、強いショックを受けた。その先生は、いつも熱心で自分の寿命に比べてやりたいことが多すぎて歴史が長すぎて人間なんて瞬く間に寿命がきてしまうのだけれども、織田信長の人生わずか50年は、研究生活をしたいとついこないだおっしゃっていらっしゃったのに、突然、亡くなったのであった。どうも、骨とう品やで室町時代からの脇差を買って、それが吸った血の怨念にやられたのではなかろうか、と教頭先生が寂しそうに、話されていた。気持ちわかります、と田中先生が厳かな口調でおっしゃった。わたしは、えっ、と思った。わたしは、付き合い始めの春の陽気を感じていたというのに田中先生は、死について考えていたのだ。わたしは、泣いた。わたしは自分がとんちんかんでひとりよがりなことに涙を流したのであった。もののたとえでいっただけですよ、と田中先生は、困ったような顔をされたのだけれども、わたしは、死はひそやかに身近に存在し、おばけみたいな黒い塊にのまれたら死んじゃうと思った。教頭先生は、呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音!と石川啄木の歌を例にあげられて、教員とは、そのようなさびしいしごとでもありますよ。生徒たちが、僕の心境になったときは、白い雲の中に僕の魂はのぼってしまっているのだろうな、っておもうときがあって、社会科の先生もきっとぽきっと何かが心の中で折れてしまって死を選んだのではないのかな、とおっしゃった。わたしもその言葉にしんみりとした。数学は、なんにもかわらないようなところがあるけれども、数学のこの世の存在意義がわからないし、数学なんてなくても生きていけるという生徒もいるし、わたしも自分が高校生のときに感じた数学を解く楽しみをさほど感じれなくなっていて、そういう淡々とした気持ちが教師には必要かと思い込んでいたけれども、それじゃいけないような気持ちもした。わたしと田中先生は、社会科の先生の供養もかねて、社会科の先生が愛した吉田松陰のふるさとにいくことにした。そやけど、もっと気楽で楽しいところに行きたいような心持もして、哲学的な田中先生とわたしの求めているものは、少しずつずれていっているような気持ちもした。だけれども、わたしは、田中先生のやわらかい瞳をみると、そういうことは、わたしの無教養のなせるわざであって、年下だけれども田中先生を師と仰ぐことで、わたしも、おつむがよくなりそうな気持もした。それでわたしは、実はわたしは文学部か数学科に進むか悩んだのだけれども、文学は一生をかけて人生の中で学んでいこうと考えたのよ、というと、田中先生は、首を少しかしげて、わたしには、難しい、文学に挑むことよりも、もっと、文学では表現できないようなことを、数学で表現してみることも大切かもしれないよ、とおっしゃった。言葉を転がして人の心を弄ぶことも、可能なことが、人を苦しめるんだよ、ともおっしゃって、わたしの日本語は、単純で、素朴な感じで、よいから、あまり難しい言葉に挑むと意地悪になっちゃうかもしれない、とおっしゃった。わたしは、微笑んで田中先生をみた。そうはいっても田中先生とのことを日記につけよう、そう決心した。数え棒日記という名前にした。それは小学校一年生のときにはじめて算数を習ったときの気持ちのように、田中先生との日々を綴っていきたいとおもったからだ。わたしは国文科の田中先生に比べて語彙が圧倒的に不足している。そやけど、それはそれでわたしの魅力かもしれへん。田中先生は東京で流ちょうな日本語を話すひとたちに囲まれて消耗してこの田舎の町に文学修行もかねてこられたんや。そう考えると、わたしも、田中先生がおっしゃっているわたしの感覚を数学で表現しているぐらいのかんたんな日本語で、この日記をつけるべきちゃうんやろか。ああ、そやけど、田中先生は標準語やから、わたしは、標準語に合わそうとおもって、言葉が固くなっているかもしれへんし、逆にそれくらいあんまりしゃべられへん方がかわいく映っているかもしれへんし、どっちなんやろ。どっちなんやろ、って考えたとき、わたしは胸がまたぎゅっと苦しくなった。わたしの想いの方が強いような気持ちがしたからだ。五つ年上なんだから。わたしはやっぱり淡々とした落ち着いた女性でいることを選択しよう。川の流れを一緒にみていて、わたしはそう考えた。人生は川の石とおんなじ。かつてそう教えてくださった恩師のことを思い出した。わたしはいまどのあたりの石なんだろうか。自分の我を抑えてはなすことも、いいような気持ちがしたのは、一緒に花火をみていたときだった。田中先生の手が私の手に軽く触れて、わたしはそれにきがつかないふりをして、たまやーといいながら花火をみあげて、それで少しだけその白いうなじをみて、そっと手をはずしたときだった。大人の女性になろう。わたしはそう考えた。それはたぶん田中先生が愛する日本文学の中に表現されている女性が、そのような女性が多くて、子供のころかたっぱしから読んだときは、あらすじをおうことに集中していたけれども、なんとなく文豪たちが愛した空気がとまっているような不思議な空間が、日本女性にとっては大切なような気持ちがしたからであった。わたしは、このような感覚ん自分が陥ったことに対してプログレスしている。わたしは進化していると感じた。黙って数学を解いているとき、はたからみたわたし、のような時間は、他人から好ましく映っているような心持がしたのであった。田中先生は、わたしが手を離すと、土手の草を触っていらした。そうして、ふたたびわたしの手を上からぎゅっと握られた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加