祈り人の指先

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祈り人の指先

 星は眠る。  東の端から帳をひるがえすように夜は明けようとしていた。橙ににじむ空の反対側で、星がひとつまたたいて消える。ひとつ、ふたつと消えるほどに夜は失せて、生まれ変わるように新しい朝がやってくる。  岩砂漠に囲まれた砦たるティシサの朝は、ゆるやかだ。人の背をゆうに超す高さにそびえる高い壁は、朝の進入すら拒む。けれど赤土に染みこんだ夜は風とともにひそやかに逃げていき、その静かな攻防は、古い寓話に語られるようにいつだって朝に軍配が上がる。なにものも太陽を本当に拒むことはできない。  晴天だった。伝統の騎馬祭が行われるにふさわしい、いい朝だ。けれど祭を前に少年の心は沈むばかりだった。見る間に明るくなっていく外を彼は恨めしく見つめていた。 「朝なんてこなければよかったのに」  少年はティシサにありて古くは傭兵として生計を立てた騎馬一族の二長を祖とする、兄弟の末として生を受けた。今年で十になる。 「もう、ティオ! いい加減にしなさいよ、兄さんたちもう行っちゃうんだからね!」  二つ上のエミネが急かすように言った。この姉はいつもうるさい。ティオは唇をとがらせて、ぼそぼそと文句を言った。 「僕もみんなと一緒に行きたかった」 「行けないんだから、仕方ないじゃない」  理由にもなっていない却下をするものだから、ティオはますますむくれた。 「鳥に生まれればよかった」  上着の紐をいじりながら、ひとりごちる。そうすれば何も憂えることなどなかっただろう。歌いたいときに歌い、飛べるときに飛ぶ羽があるなら。足下の白い小石を蹴り上げる。 「金糸雀のように閉じ込められたいの?」  鮮やかな緑の革靴でエミネは小石を蹴り返した。ティオが飛ばしたよりずっと遠く飛んで、赤土の上にぽつんと落ちた。 「そんなわけない。わかっているくせに。渡り鳥とかさ」 「渡り鳥は置いていかれたら死ぬしかない、ってビスラ義姉さんが言ってたわ」 「置いていかれないよ」 「帯ももらえないくせに」  馬鹿にしたように笑うエミネをにらみつける。  騎馬祭に出るには、まず女たちから帯と祈りをもらわねばならない。懇意にする女性でなくても、母親や姉妹でもいい。部族を裏切らず、戻ってくるための誓いだ。ティオはきちんと誓ったのに、母は帯を編んではくれなかった。もちろん姉たちも。すべてはティオがティオであるせいだ。 「いいじゃないの、十で騎馬祭に行かない子なんていっぱいいるわ。十五までに行ければ成人だって出来る。それにあんたは塔に――」 「七番目なんて関係ないよ! アンハは十で行ったんだよ、十二の頃には火金石を持って帰ってきた」  続きを聞きたくなくて、ティオは早口に遮った。もはや知らぬもののない兄の名を上げれば、エミネは肩をすくめる。 「あんたと兄さんじゃ違うわ。みんな、心配しているのよ」 「だから女のように家で待てって?」 「女のように!」エミネは眉をつり上げた。「あんたみたいに何もしない子よりはましよ。もう、勝手にすれば!」  肩をいからせて戻っていく姉の後ろ姿に、ティオは小さな声で、間違っても聞こえてしまわないように「できるものなら!」と吐き捨てる。大慌てであとを追いかけた。  騎馬祭はもう始まろうとしていた。  一度目の銃声が、澄んで高く響く。たなびく白煙が雲と混じり合い、地平線の青をかすませる。  門の前にずらりと馬が居並ぶ光景は、何度見ても見慣れることはない。まるで物語の中の出来事のようにティオの毎日になじむことはなく、だからこそそれだけで気分が浮き立った。馬上の人となった男たちの腰には、誇らしげに色とりどりの帯が結ばれている。  男たちの騎乗を見守っていた女たちが、彼らの出立を見送るべく進み出る。母や姉に送られるものもいれば、恋人や妻に送られるものもいた。見回すとすぐに兄たちを見つけられた。だが、見つけただけだった。女のように駆け寄ることもできずただ足下をにらみつける。 「ティオ、一緒に行かない?」  見かねたのか、義姉のビスラが誘いにきたがティオはうなずかなかった。残念そうに眉を下げるビスラは、大きな腹に初めての子を温めている。それは渡り鳥の卵だ。ティオのすぐ上の兄で渡り鳥の心臓を持つ、ティシサで知らぬものはいない男、アンハの子だ。  ビスラは重たそうに腹を抱えながら夫の元へと行こうとしたが、それより先に彼の方がこちらへやってきた。アンハは寄ろうとするビスラを制して、馬を二歩下がらせる。 「そこでいい。もし馬が暴れたら体に障る」 「暴れるわけないじゃない、馬鹿ね!」  ビスラが苦笑して言い返しても、アンハは真面目な顔で首を振っている。案外この兄が妻に弱いことも、心配性なことも、ティオは知っている。ビスラだってわかっているはずだ。だからすぐにあきらめて、その場で両手を開いた。 「行く道に神の加護がありますように。無茶はしないのよ」 「わかってる。俺が戻ってくるまで生むなよ」  祈りを受け入れて、アンハが右手を心臓に置く。祈られる側の作法だ。ティオには憧れの動作だったが、兄ほど勇ましく祈られることはきっと出来ないに違いない。まるで鳥がはばたくかのようだ。  出立の合図となる二度目の銃声が鳴る。 「気になるなら早く戻ってくるのね――待って、もう一度」  きびすを返そうとしたアンハをビスラが呼び止めた。他の男たちが次々と馬を駆って飛び出して行く中、彼は厭うことなくその場に留まる。  ゆるりとまた開かれた妻の両腕に、アンハは心臓をそっと抱いた。 「すぐ戻る」  ビスラは微笑んでうなずいた。他の女たちが旅立つ男の背に向けて祈る中、彼女は愛おしげに腹を抱いたまま、再び両手を開くことはなかった。 「どうして義姉さんは祈らないの?」  わざわざ呼び止めたりせず後ろ姿へ向ければよかったのに、とティオは思う。だってアンハが遅れてしまう。尋ねると、ビスラは少女めいて楽しそうに笑った。 「彼を馬から落とさないためよ」  砂煙を立てて旅立っていく騎馬の群れが、まるで渡り鳥の翼のように見えた。  やっぱり祈ればよかった、と思ったのは地平線に近づいた騎影が朝日を浴びて星のようにきらめいた頃だった。たあん、と三度目の銃声がして、ティオは途方に暮れてただ大地を睨みつけた。  風が重く、まとわりつくみたいだ。  ティオは大気の香りを感じようと鼻を鳴らした。砦の塀の上には、街とは違う風が吹いている。きっと風の層が違うのだろう。夕焼けはいつもより湿っている。明日の夜半には、はじめの雨が降るかもしれない。雨よりも先に男たちは戻ってくるだろうか。  塀はティオの両手を広げたよりも広く、歩いても不安はない。塀に上るための階段じみた突起を見つけたのは去年、仲間たちと遊んでいたときだった。誰にも秘密と決めたそれを、登るのはもうティオしかいない。そうっと冷たい風が足にまとわりつく。  こらえてももれるため息が、またひとつ落ちた。  砦跡へ行ってみたかった。ただ羽ばたいていく鳥のように、馬を駆る兄たちのように、なにものにも囚われずに自由に旅立ってみたかった。  暗くなり始めた空の下、ティオ、ティオ、と呼ぶ声がする。母が己を捜している。わかっていたが、耳をふさいだ。  ティオは一族の中でただひとりの、七番目の男子だ。  彼が生まれたとき、母は嘆いたのだという。何度も何度も生まれた子の性別を確認し、間違いなく男子であるとわかると、大声で泣いた。七番目の男子だと泣いた。  七番目の男子は祈り人になると、昔から決まっていた。十二になると身内との縁を断ち、汚れを負わぬよう塔の高くに住み、染色のない生成の衣のみを纏い、聖典だけを読みながら、ひたすら祈りを捧げて生きる。祈り人の塔はこの砂漠の内にあって、どの砦にも寄らない。赤土にひとつ落ちた白い小石のような、さみしい場所だ。  ティシサが赤土だとしたら、白い小石はティオだった。きっぱりとわかたれて、赤くなることのできない真っ白でさみしい小石。  それでも、去年まではまだよかったのだ。今年に入って同い年の連中が街の仕事を手伝い始めると、ティオは途端にひとりぼっちになった。いずれ祈り人になるのだからこの街の仕事を覚える必要はない。一人前の大人になるために皆が行うすべてが、ぽんとティオから取り上げられてしまった。  騎馬祭だってそうだ。女の子は行かない、など慰めにも何もなりやしなかった。ティオは女ではないし、女の子だって一人前の大人になるために、男には秘密の何かを毎日しているのだ。  祈り人になるものを粗末にしてはいけないからと、あれこれ大人たちに気を遣われるのも腹立たしかった。ティオはティオなのに、何もしていないのに、砦を滅ぼしたようにすべてが変わってしまったことが何より腹立たしかった。  けれどその怒りは、七番目の男子が本当は何なのかを知ったら、ぷつりと途切れて、何もかもどうでもよくなってしまったのだった。  その話は親戚の誰もしてくれなかったが、いつも酒ばかり飲んでいる近所の老婆が教えてくれた。  ――ずっとずっと昔、一族の七番目の男子は、家族を裏切って罪を犯したのさ。  秘密を打ち明けるようなしわがれた声は、それからずっとティオの耳の中にある。  なるほど、と思ったものだ。  だから七番目の男子は、自分以外にいないのだ。だから七番目の男子が産まれたら、その子が二度と一族を裏切ることがないように塔へ上らせてしまうのだ。塔に上って祈り人になれば神のいちばん近くで見張られて、一切の悪事はなせぬだろうから。  ――だからお前は、たくさん、たくさん、祈らねばならないよ。むかし、むかしに犯した罪を償わなければならないのだから。  生まれる前のことなど、ティオにはわからない。けれど七番目の男子として生まれたことがその証なのだと言われてしまうと否定する術がない。  この血の中に一族を裏切る種が植えられていて、それがいつか芽を出すのだろうか。そもそも、七番目の男子がした裏切りとはいったいなんなのだろう。  教えてくれれば絶対にしないと誓えるのに、誰も何も言ってくれない。  だからもう、どうでもよくなってしまった。  風が強く吹いて、ティオは猫のように肩をすくめた。塀に落ちた鳥の羽根を風の手がひらひらと運んでいく。渡り鳥のものだろうそれをティオは追いかけて拾い上げた。一直線に長い、真っ白な羽根だった。  右手に持ってその鋭い羽根の先を、もうすっかり暗い空に向ける。夕焼けの上をまたたきはじめた星がすべり落ちた。和毛に覆われた根元をふわふわといじりながら、ティオはいつか聞いた青の民の歌を口ずさんだ。 「兆しは山の上――風は降りる――」  藍で染め抜いた服しか纏わずどの砦にも寄らぬ流浪民は、どこか祈り人と似ている。けれど彼らは何処にも留まらず、ひたすら旅を続けている。  ティオがもっとずっと幼い頃に一度、彼らはティシサを訪れた。あまり覚えてはいないが、どきどきしてたまらなかったのと、夜の深いやみの中に響いた歌声だけはよく覚えている。 「祈り人の指先は羅針盤の針――渡り鳥の風切り羽――進みゆく人の杖――対なる導の星を示す――」  頭上にひときわ輝く星を、ティオは白い羽根で指した。  そのとき、北の地平線で何かが瞬いた。  星かと思ったが、それにしてはずいぶん大きい。目をこらすとくすぶる夕焼けのもやに騎影が浮かび上がった。ぱっと光が散った。たあん、と高く、銃声に似た音がとどろく。  花火だ。  ティオはそのとき、まるで目の前に星が落ちてきたかのような不思議な高揚を覚えた。  音ではなく、光でもなく、それは兆しのようだった。訪れるものに触れたい、知りたいと、心臓が痛いほどに高鳴る。  誰か来る。  地平線の彼方から、砂煙を上げながら近づいてくる。馬上の人の持つ松明が揺れる。  ティオはあわてて塀の上から降り始めた。  花火の音と光を聞きつけて、門のそばには人が集まり始めていた。急いで降りなければ、見つかったら塀に登っていたことを咎められるかもしれない、そんな焦りがティオの足先を迷わせる。重心を移した突起ががらりと崩れた。  五段ほどの高さを転げ落ち、したたかに背中を打つ。全身が真っ赤になったような気がして、涙がにじんだ。声を殺してのたうち回っていると、わあっと門の方が騒がしくなった。 「まあ、いくらなんでも早すぎだろう!」 「そんなに心配だったのか?」 「渡り鳥の心臓が、今度は星を連れ帰ってきたってよ!」  アンハだ!  ティオは体をさすりながら起き上がった。至るところがずきずきするが、立ち上がることはできた。人だかりになった門の方へ行くと、姿は見えないまでも声が聞こえてくる。 「星を連れてきたのは俺じゃない、アッジャドだ」 「それだってすごいことさ」 「よかったねえ、明日は雨が降るんじゃないかって、心配していたんだよ。さあ、お星さまもアッジャドもどうぞ」  ティオは目をまたたいて耳をすませた。お星さまとはなんだろう。まさか、星が落ちてきたのか?  人だかりが割れて、アンハの姿が見えた。見知らぬ大柄な老人を連れている。ただその顔立ちは、ティオの祖父によく似ていた。アッジャドという名にも聞き覚えがある。祖父の弟だ。ティオの大叔父に当たる。  アッジャドは、祖父とは近しい歳とは思えぬほど若く大柄な男だった。ティオを見つけると顔一面でにやりと笑った。 「お前がじいさんの願いの子か」  何のことかときょとんとしたティオの代わりに、アンハが物怖じせず問いかけた。 「なんですかそれ」 「つまり、七番目ってことさ。大きくなったなあ」  乾いた大きな手で頭をつかまれ――撫でられる、というような生やさしいものではなかった――、ぐらぐらとティオは体ごと揺さぶられる。まわる視界をなんとかしようと大叔父の指を掴んで悪戦苦闘していると、ふと高い子どもの声がした。 「アッジャド、おれは先に行っているぞ」  ティオより少し大きいくらいの子どもだった。ぐるりを見回しながら、女たちに呼ばれる方へ歩いていく。ティオはその後ろ姿をなんとなく目で追いかけた。 「あの子、だれ?」 「導の星だよ」  アッジャドはまた、にやりと笑った。  導の星とは、青の民の導き手だ。  季節ごとに移動を繰り返すのではなく、常に旅をしている。枯れ果てた泉のかわりに川を捜し、新たな泉を見つければそこへ民を導く。砂漠に道を敷くように、迷うもののないように。すべてを知るものは、まさに星と呼ぶにふさわしい。  それは青の民だけの風習ではなかった。 「星を戴くのは、砂漠に棲むものなら当然のことだ。夜に星がなければ、進むべき道もわからん」  アッジャドは乳酒を舐めながらつぶやいた。  この大叔父は、青の民の娘と結婚して婿へいった。上に五人も兄がいたから出来たことだと笑う頬には、濃紺の染みがある。藍で染めた布しか纏わない青の民は、衣類にこすれて染料が肌に染みつくことが珍しくない。祖父と同じような顔をしていても、あまり親しいと感じられないのはその染みのせいかもしれない。  アンハと共に帰ってきた数人と残っていた年寄りたちとで始まった、アッジャドを迎え導の星を祝福する名目の酒盛りは、すでに目的を失い始めていた。  おのおのが好き勝手に呑み話すために、あちらこちらに話の輪ができている。導の星だという子どもとは、それほど話すこともなかったのだろう。星は女たちに世話をされていた。  ティオも夕食を兼ねた酒盛りに加わっていたものの、やはり誰と話すでもなく、かといって裏方を手伝うわけにもいかず、部屋の隅で膝を抱えていた。聞くとも無しにあちこちの話が耳に入ってくる。  今年の騎馬祭のこと。初めて参加した子らは、誰ひとり遅れなかったこと。かぶせるように、自分たちの初めての騎馬祭の思い出、失敗談、馬鹿笑い……。  楽しそうな空気が恨めしくて、ティオは目を閉じる。  ふと誰かの声が、導の星はずいぶん幼いな、と言った。 「先代の星が、落ちてしまったのだよ」  アッジャドの声が苦く答える。  ある日、星が落ちてきた――そんな昔話をティオは母から聞いた気がする。あれは双子の星の物語だったか。どんな話だっただろうと目を開けると、アッジャドと目があった。彼はすでにずいぶん酔っているように見えた。 「よう、じいさんの願いの子。飲んでいるか?」  ティオは首を横に振り、部屋の隅から這い出してアッジャドの前に座った。 「それってなんなの?」 「祈り人になるってことさ。知ってるか、俺のじいさん……つまりお前のじいさんのじいさん、ラシドは、祈り人の塔にいたことがあるんだ」  聞いたことがない。そもそも、高祖父のことはほとんど知らなかった。ティオが首を横に振ると、彼はうなずいた。 「そうか。これは内緒の話だからな。俺のじいさんはひとり旅に出て、どこをどう歩いたのか塔へたどり着いたのさ。その塔がどこにあるのかは未だにわからん。ただそこはとても寂しく、そのときじいさんは、いつの間にやら自分が死んで、死にきれずに奇妙な場所へ迷い込んだように思ったのだそうだ」  白い塔だ、とアッジャドは夢を見るように言った。それが本当に見てきたような口ぶりだったので、ティオは思わず口を挟んだ。 「大叔父さんはその塔見ていないんでしょう?」 「そうとも。だが俺はじいさんから、何度も聞いたよ。繰り返し聞いたせいかもう俺の頭の中にその塔はあって、まるで自分が見てきたように感じられる」  ふとアッジャドは顎ひげをしごいて呻いた。 「これが歳を取るということだな。聞いた話も、自分の話も、だんだん混ざって、蜜のように濁る。歳は取りたくないものよ」  言って酒をあおる、その呑みっぷりをただただ眺めていたティオに、アッジャドはくるりといたずらっぽく目を瞬かせ、まるで子どものように笑った。 「だが時が経つからこそ人生は面白い。お前にはまだわからんかもしれんがな!」  酔っぱらいの力加減のなってない手のひらで背中をしたたか叩かれて、ティオはむせた。そこには階段から落ちた痣もあって、痛みに涙もにじんでくる。  この酔っぱらいめ!  アッジャドは泣きそうになったティオを笑いながら、今度は声を潜めて言った。 「俺はな、夢を見るのよ。白い塔の夢をな。もう忘れたと思っていた、子どもの頃のじいさんの思い出話を、まるで自分が歩いたように見る。そしてじいさんのしゃがれた声が、俺の耳に語りかけてくるのよ」  ――それが夜だったのか昼だったのかすら覚えていない。灰色の景色の中に浮かび上がった白い塔の、そのおそろしいほどの存在感を未だに覚えている。入り口を飾る象眼すら、白の濃淡で出来ていた。床も、壁も。  アッジャドの声は低くしゃがれ、そのくせ紡がれる言葉は歌うようになめらかだった。まるで彼の中の高祖父の記憶が、その舌を借りて話しているかのように。  ――乳を流したような廊下を、その人は滑るように歩いてきた。声を聞く前に、祈り人だとわかった。絹の衣を着ていたわけでも、造形が目を瞠るほど美しかったわけでも、絢爛なる装飾品の数々を身につけていたわけでもない。ただその人は、猛禽が翼をたたむような優雅さで手を差し出した。それだけで何か許された気がして、その手にすがってしまった。  言葉を途切れさせ、長い沈黙の後に、アッジャドはくしゃりとティオの髪をかき混ぜた。馬鹿力でも加減のない酔っぱらいの手でもなく、まるで大切なもののように撫でられて、ティオは目をまたたいた。 「だから恨んでやるなよ、願いの子。お前が祈り人になるのは、意味のあることなのだからな。今では俺もそう思う」  からりと笑い、アッジャドはこれで話は終わりだというようにぱんと大きく手を打った。そのときだった。 「アンハ!」  血相を変えて母が飛び込んできた。 「ビスラが産気づいたからね、お前も覚悟をしておいで」  はっとアンハは立ち上がった。もうすでに終わりに近づいていた酒宴は、その一言で再び活気づいた。アッジャドが大きな声で笑った。 「めでたいな、アンハ! よし、酒だ! お前にいい話を教えてやろう。六番目同士の秘密の話だ……」  これからアンハにとって、忘れられない眠れない夜が始まるのだろう。  ティオはその眠れない夜を見ていたかったが、母に連れられて寝床へ入れられてしまった。  乳を流したような廊下を、ティオはゆっくりと歩く。  長い長い廊下だ。どこまで続いているのかすらわからなかったが、不安はない。右手がひどく温かく、わずかに先を行くように手を引いてくれるのでまったくおそろしくなかった。  すべてが白い道は、扉をひとつ開けると鈍色に変わった。  さまざまな色を混ぜて溶かし込んだやみは深く、一瞬、足がすくむ。吹き込んだ風に白い衣がひるがえり、隣に立つ人の淡い輪郭が、光の鱗粉を散らしてやみの中にまたたいた。  ――かえろう。  右手を引いてくれる人が言う。 「かえるって……何処へ?」  光が花を散らすようにぱっと広がり、足下にまた長い乳色の廊下が現れた。廊下はちらちらと輝き、夜の底に白く、道が繋がった。  ――日の昇る方へ。風の吹く方へ。わたしたちの生まれた大地へ。……空へ。  繋いだ右手に力をこめる。帰ろう、とティオはたしかに、つぶやいた。  右手に触れていたぬくもりが、あっという間に解けて消えていった。  目を開けても真っ暗で、ティオは一瞬、自分に何が起きたのかわからなかった。ほんのまたたきの間に、長い夢を見たようだった。  けれどそのまたたきの夢はひどく大きくて、右隣にいた誰かの喪失が、まるで右腕ごとひきちぎられたかのように苦しかった。ティオは毛布の中でのたうちまわり、胸をかきむしった。  もう一度目を閉じる気にはとてもなれず、毛布をかぶったまま起き出す。普段一緒の部屋に寝ているはずの兄たちは騎馬祭で誰もおらず、階を下りても、姉や母も誰もいない。ビスラの出産に手を貸しているのだろう、そう思いはするものの目覚めたときの寂寞が堰を切ってあふれ出し、ティオはたまらなくなって外へ飛び出した。  満点の星が輝いていた。まるであの乳色の廊下のようで、あれは天の川だったのだとティオは気づいた。輝く夜空からは、数えきれぬほどの星が落ちる。ああして、ティオか、右隣の誰かが落ちてしまったに違いない。  ぼんやりと空を見上げていると、誰かの足音が近づいてきた。振り返る。 「……アンハ」  落胆と安堵が同時に押し寄せた。 「ティオ、どうした?」 「眠れなくて」 「そうか、俺もだ」  アンハはティオの隣に並び立つと、同じように空を見上げた。きっと今、転がり落ちた星をアンハも見ただろう。 「アッジャドのじいさん――つまり俺たちのじいさんのじいさんだが」 「うん」ティオはうなずいた。「ラシドっていう人でしょう」 「そう。六番目の男子だったんだとさ」  アンハが何を言おうとしているのかわからず、ティオはただもぞもぞと毛布の中で足踏みした。足先が氷のように冷たく、鼻の頭がじんとする。  アンハは言葉を迷うようにしばらく沈黙していたが、ふと、ティオの方を見てにっと笑った。 「だからこれは、六番目の子の秘密の話だ」 「うん?」 「いいから聞いとけ。俺の独り言だ」  独り言だといいながら聞けとは変な話だ。そう思ったが、ティオは素直にうなずいた。 「ラシドじいさんには、弟がいたんだと。お前の前にいた、七番目の男子だ。名をティオと言った」  ティオはきょとんと目をまたたかせた。 「お前は知らないかもしれないが、うちの一族には青の民の血が入っている。ラシドじいさんの母親は、青の民だったらしい。だからアッジャドは青の民に婿へいけたわけだけど……まあ、それは今はいいんだ」 「うん」 「ラシドじいさんと弟のティオは、とても仲のいい兄弟だった。だけどティオは、青の民の導の星だった。だから一族から出て行って、青の民に引き取られた。ラシドじいさんは最後までそれを引き留めたが、母は頑なに導の星にすることを望み、父も七番目の子だからいいだろうと許したそうだ」  俺もアッジャドから聞いた話だけど、とアンハは言った。 「ラシドじいさんはそれでも導の星になった弟に会いたくて、決まった季節の決まった日に、必ず約束した場所で会おうとふたりで誓い合った。けれどティオは、一度も来ることがなかった」  ラシドは弟が約束を破ったのだと腹を立てた。あいつは一族を裏切ったと、声高に言うこともあったらしい――ティオはそう聞いて、胸が少しすっとした。あの酒ばかり飲んでいた老婆は、きっとこれを小耳に挟んだに違いない。 「でも本当は、ラシドじいさんのティオは死んでいたんだと。ずっとずっと後になって、ラシドじいさんは青の民の占者から聞いたそうだ。彼らは導の星が落ちるとすぐわかるらしい。星になって一年目に、約束の場所へ行こうとして、ティオは死んでいた」  星が落ちることは、珍しくないのだという。今はアッジャドがついているが、あの小さな導の星とて、いつかはひとりで旅をすることになる。導き手として、道を拓くものとして、かれらは旅することを義務づけられている。ただひとりの旅路が、どれほど困難かは想像に難くない。 「だからラシドじいさんは、いつか七番目の子が生まれるなら、その子はティオと名付けて、どうか祈り人にしてやってくれって言った。亡骸さえ帰ってこなかったから、次に生まれてきたときには、神さまにいちばん近い場所で守ってやりたかったんだとよ」  喉がふるえた。しゃがれた声が、耳の中で白い塔の話を語り出す。  ラシドじいさんは、なぜひとり旅に出たのだろう。きっと、ティオを捜してに違いない。何も知らず悪し様に罵ってきた弟が、実はもう死んでいたと知って、彼はひどく嘆いただろう。  祈り人の塔を見つけ、祈り人に触れて、ラシドは救われた思いがしたと語った。きっと弟の亡骸を、命を、魂を、そこへかえしてやりたいと願ったのだろう。  ――かえろう。  そういって右手を握ったぬくもりは。  それを思ったら、もう駄目だった。  体がしぼられるようにぎゅうっとして、唇がわなないた。悲しい、嬉しい、寂しい、会いたい、もうどこにもいない。  この気持ちを表すための言葉が次々と胸の内で弾けて、そのどれもが正しくてどれもが違っていた。ただ、たまらなかった。眉間からじわっとにじむように何かが染みだして、あっという間に堰を切って涙が流れた。  ぼろぼろと、何度ぬぐってもあふれてくる。  アンハが笑った。 「どうした、泣くな」  うん、うんと声もなく肯く。泣きながら、何度もしゃくり上げた。  星は、なぜ巡るのだろう。なぜ新しい朝を導き、夜を呼び、人の標となるのだろう。自らの命を糧に燃え続け、ただひたすら歩き続けて、その先に待つものを知らぬまま。鳥のように、戻ることもなく。  それをアンハに尋ねると、彼は遠い目をして語った。 「昔、導の星に会ったことがある」 「えっ?」 「いや、正確なところは知らない。ただ、今思えばあれは導の星だったんじゃないかと、思う。ずいぶん歳を取ったじいさんだったよ。こんな小さな荷物ひとつで、たったひとりで旅をしていた。何処へ行くのかと尋ねたら『何処までも』ってな」  何処までも。  ただ、目の前に広がるこの荒れ果てた大地を、道も標もなく、何処までも。  それは、なんという旅路だろうか。 「渡り鳥の話をしたんだ。鳥は旅の中で生まれ、旅の中で死ぬ。その生そのものが大きな旅だと――鳥にとっては生きることが飛ぶことで、旅することが生きることだと」  アンハはふと苦く笑った。 「あれはきっと、自分のことを言っていたのだろうな」  それから言葉を振り払うように、ぐっと大きく伸びをする。 「ああ、なんて長い夜だよちくしょう」  ティオはこぼれる涙をぬぐいながら笑った。 「眠い?」 「ものすごく。でもきっと、たぶん昼くらいまでかかるって言ってたからな」  女は強い、と途方に暮れたような声でアンハが言う。 「でもぜったいに朝は来て、昼もちゃんと来るから大丈夫だよ」  ティシサの高い壁も、本当に太陽を拒むことなどできやしないのだ。  やがて空が白み始める頃、アッジャドと導の星が起き出してきた。外で毛布をかぶっているアンハとティオに驚いたようだが、ちょうどよかった、と切り出した。 「明日の夜には雨が降りそうだ。その前にもっと南へ行ってしまいたい。だから俺たちはこれで失礼するよ」 「雨が止むまでティシサにいればいいのに」  アンハが驚いてそう言うと、導の星が首を振った。 「この雨は長くなる。季節を変える雨だ」  そういえば、導の星とはほとんど話していなかった。年が近いようなのに残念だ、とティオが思っていると、向こうも同じように思ってくれたのだろうか、ふと導の星はティオへ歩み寄ってきた。 「祈り人になるのだと聞いた」 「うん」  風がどうと吹いて、導の星の青い衣をひるがえした。鋭い角度で差し込む朝日がまばゆくその輪郭を彩り、ティオは目を細めた。  光に白く染まった裾が、きらきらと鱗粉を散らすように輝く。長く泣いていたせいだろうか、涙の粒がまだ目の中に残っているのかもしれない。 「青の民には、双子の星の話がある。知っているか?」  思い出した。昨夜、アッジャドの言葉で思い浮かんだ、母に聞いた昔話のこと。片割れが落ちてしまった双子星の物語。 「双子星の片割れは、大地の上で塔になった。星は塔を標に空を巡り、人は巡る星を標に大地を歩く」  導の星ははっきりとそう口にすると、照れたように鼻の頭をかいた。 「だから、名を教えてくれ。お前の名を思いながら、おれは空を巡る。……おれの名はラシドだ」  ティオは息を飲んだ。唇が再びわなないて、また涙がこぼれそうになった。その沈黙を勘違いして、導の星ラシドは「嫌ならいい」と退こうとしてしまう。  ティオはあわててかれの手を掴んだ。温かな手だった。  ――かえろう。  夢の中の声と、しゃがれ声の語り手と、導の星の高く澄んだ声が重なった。 「僕、ティオだよ」  名乗ると、ラシドは顔をくしゃりと歪ませて笑った。子どもらしい笑顔だった。  繋いだ手はゆるやかに解かれ、ラシドはきびすを返したが、ティオは夢から覚めたときのようにひどい孤独を感じることはなかった。ぬくもりは手の中に残り、まだどこかで繋がっている気がした。  アッジャドが手を振る。ラシドが手を振る。  同じように大きく手を振りながら、ああ、また自分は泣いているのかもしれないとティオは思った。朝日がきらめいている。砂のおもてを洗いながら、風がゆるやかに吹きすぎる。その風の手に捕らわれて、昨日のように、渡り鳥の羽根がひらひらと足下へ訪れた。  ティオはそれを拾い上げた。  その羽根先で真っ直ぐにラシドを差し、それから翼を開くように両手を広げる。  ふたりは顔を見合わせ、それから右手を心臓に当てた。鳥のようだ。アンハのように勇ましい姿ではなかったが、軽やかでどこまでも飛んでいけそうな気がした。  ――お前の名を思いながら、おれは空を巡る。  ラシドがそう言うのなら、ティオは常に空を見上げてその無事を祈ろう。不動の地上の星であろう。  その日の昼、ビスラは無事に玉のような赤子を生んだ。男子だった。  その子どもは、アッジャドと名付けられた。
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