生殖能力

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生殖能力

 ヤプシが人払いをしたことがこうなると幸いだ。異変に気づかれるまで少しは時間があるだろう。ミュゼは窓を開け放ち、そこから見えていた木の枝に思い切って飛び移った。 「よ、は、――」  ふらついて声を発しそうになり、慌てて自分の口を押さえる。なんとかバランスを取り戻し、ミュゼは太い木の枝の上に身を伏せた。そんな動きが自分にできることに、自分で驚く。  万が一にも自分たちが神判の花嫁の一族だと知られないためには、必要以上に目立つことがあってはいけない。だから祖母はミュゼを移り住んだ村の祭りにも極力参加させなかった。「かけっこで一番になると、甘い菓子がもらえる」そう口にしながらかけっこの会場に今からもう駆けていく子供たちを、窓からそっと見守るのが常だった。だから木登りするのも初めてだったのだが。  家猫族だって、元は猫なんだから。おれだって、やればできるのかも。  その発見に己を励ましつつ、ミュゼは樹上をそろりそろりと移動した。ようやく太い木の幹までたどり着き、ひと息ついて下を見た。――のが、良くなかった。  たっか!  下手に夜目が利くのも良くなかった。ちょっと下をのぞき込んだだけでくらっと目眩がして、ミュゼは蝉のようにひしっと幹にすがりついた。いっそ本当に蝉だったなら、飛んで逃げることもできるのだが。  心臓が早鐘のようにどくどくと打つ。  どうしよう。  上がったはいいが下りられない。 「いたぞ、あそこだ!」   蝉に徹しているうちに、あっさり見つかってしまった。山猫族のほうがより夜目が利く。  わーん!  心の中で泣き叫ぶが、逃げようと思うなら、これ以上迷っている暇はない。ミュゼはぎゅっと目を瞑り、隣の木の枝に飛び移った。身軽に、とはいかず、落下しかけたが、どうにかすがりつく。そしてまた、次の枝へ。 「――くそ、ちょこまかと」  どうやらこの不格好な逃げ方でも、弓の狙いを定めさせないことには役立っているようだ。このままなんとか逃げ切って――そう思ったとき、別の兵士の声が耳に入った。 「生殖能力に問題がなければ、片足だろうが顔が潰れようが問題ないとのヤプシ様のおおせだ。とにかく落とせ」  生殖能力に。  問題がなければ。  何度浴びせかけられても、慣れることはない。その言葉はミュゼの心を抉った。  昼目覚めたとき、あんなにやさしかったヤプシ。ふたりの王子のうち、片方だけでも話が通じそうだと安心させてくれた、あのヤプシが。  礼拝堂の色褪せた絵を見る度、どうしてご先祖さまは逃げたりしたんだろうと思っていた。そのおかげで、祖母も母も罪人のようにひっそり暮らさなければならなくなった。父と母が危険の伴う採石場で働いていたのも、いつでも人手不足で身元を問われないからだ。  かすかな記憶の中の母は、いつもミュゼにはやさしかった。そのやさしい母や祖母が苦しい生活をしているのは、まったく自分たちのせいではない。先祖が神判の花嫁の責務を果たすことなく逃げたからじゃないか。  後先考えずに駆け落ちするなんて。  自分の好きな人と結ばれることが、それほど大事なの? 恋や愛が? おれには全然わかんないよ。  ご先祖様はミュゼが産まれた頃には当然とっくに亡くなっていて、会ったこともない。だからなおさら、他人の無責任な行動で害を被ったように感じて、憤りを感じてきた。ご先祖様が逃げ出したりしなければ、お母さんもお父さんも死ななくてすんで、自分と祖母も隠れるように暮らさなくてもいいんじゃないかと。  でも、今、やっとわかった。 〈生殖能力に問題がなければ、片足だろうが顔が潰れようが問題ない〉  その言葉は、恋も愛も知らないミュゼの胸にも深く突き刺さって、抜けない。  あんなふうに、ただ権力の犠牲になって、産むことだけを望まれるなら、逃げ出して当然だ。  胸の痛みは、次の枝に飛び移るタイミングをわずかに狂わせる。兵士の放った矢が、足下をかすめた。  ――あ、  体が宙に舞う。枝葉にぶつかりながら無様に背中から落ち、地面に叩きつけられた。  ――ぐっ……!  衝撃と痛みで意識が遠のく。冷たい地面は、兵士たちが近づいてくることを振動で伝えてくる。  逃げなきゃ。  そう思うのに、体が動かない。叫ぼうにも、唇がぱくぱくと空しく動くだけだ。  それでもなんとか上体を起し、這うように逃げ出そうとしたとき、行く手を阻まれた。 「いたぞ! ――まったく手をかけさせやがって。おまえのせいでどれだけヤプシ様がお怒りだと思ってるんだ」  目の周りに痣を作った兵士が、憎らしげに唾を吐く。それを受けて、もうひとりの兵士が提案した。 「なあ、生殖能力に問題がなければいいんだったよな。なんならここで両膝から下落としとくか? そうすりゃ二度と逃げられないだろ」 「なるほど。頭がいい」  痣の兵士が、一瞬の躊躇もなく剣を抜く。 本当に恐ろしいとき、人は瞬きすることもできないのだとミュゼが思ったときだった。 「――」  風が吹き抜ける。そんなわずかな間があった。  我に返ると、ミュゼに剣を振りかざしていたはずの兵士ふたりが、無様に倒れていた。  ――え?  なにが起きたのか理解できない。それほど一瞬の出来事だった。倒れたふたりに代わってミュゼの前に現れたのは―― 「ルズガル、さま?」
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