愛撫誘発性攻撃行動

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愛撫誘発性攻撃行動

「え――?」  ミュゼはヤプシに告げられた言葉をそのまま伝えた。  祖母は逃げた神判の花嫁の娘だ。その頃はまだ事件が生々しく、追っ手の数も今よりずっと多かっただろう。しかも祖母はオメガには生まれつかなかった。本来なら、好きなように生きられたはずが、親の犯した罪のせいで、不自由な暮らしを強いられた。完全なる被害者だ。理解のある伴侶を見つけたのはいいが、貧しい生活のなかでそれも失い、娘と娘婿も失った。その上、神判の花嫁の特徴、ダイクロイックアイが現れてしまった自分を匿って生きるのは、今まで以上に大変になる。生活はずっとぎりぎりだった。だから売られたと言われても、納得するしかなかったのだ。  ルズガルは苦り切った様子でふうと息を吐いた。 「それはヤプシの虚言だ。司祭から連絡が来て、兵士が無理矢理連れてきたんだ。お祖母様は、おまえを売ったりなんかしていない。なんというか、あいつはそうやって人の心を粉々に砕くのが――悪魔的に上手いんだ」  ヤプシがやさしく食事を与えてくれたときに聞いたなら、そんな言葉は信じなかっただろう。でも、その後を経験した今なら、ルズガルの言っていることがいかに正確かわかる。  自分を追い詰めた兵士も、顔に痣を作っていた。おそらくヤプシに殴られるかなにかを投げつけられるかしたのだろう。一応仲間だろうに、そういう支配の仕方を好むのだ。 「ヤプシと俺は母親が違う。家柄はヤプシの母のほうが格上だが、俺のほうが数ヶ月早く生まれたから、生き残った王子の中では俺が第一王子ということになって、それがあいつは気に入らないんだ。昔から俺には特に張り合って」 「生き残った中では?」  なんでもないことのようにさらりと口にされた言葉に、ミュゼはひっかかりを覚えた。 「ああ、以前は寵姫の生んだ男子が他にも沢山いて――謎の病気だったり、謎の事故だったり、謎の食あたりだったり、いつのまにかふたりになっていた」  謎のって、それは。  いわゆる暗殺というやつでは。  ミュゼはふと思い当たった。 「えと、もしかしてその――」  全部を口にするのはためらわれたが、ルズガルは察しが良かった。眼帯に触れて頷く。 「子供の頃行われた鷹狩りで、どこからか持ち主のわからない矢が飛んできた。王が俺にだけ新しい鷹を与えたのを面白く思わない奴がいたんだろう」  王子様は、苦労などなにひとつない贅沢な暮らしをしているのだと思っていた。あの金銀宝石で彩られた王宮の内部を見たら、誰でもそう思うはずだ。 「おまえにも、冷たく当たるしかなかった。しきたりにのっとり、仕方なくおまえを抱くのだと思わせておかないと、なんとしてでも先に己のものにしようとするだろうから。結局は同じ結果だったが――」 「え?」  じゃあ、最初からやたらつんつんしてたのは、興味がないように見せかけるためだったのか。 「じゃあ、おれの手を払ったのは?」 「あれは」  ルズガルが言葉に詰まる。 「家猫族にはないのか? その――愛撫誘発性攻撃行動というやつだ。俺は獣の本能が他の奴より強い。反射でなるんだ。おまえが、あんなふうに、急に触れるから」  あんなふうに――? ミュゼは昨夜の床を思い出す。  怖いばかりだと思ってたのに、人生で初めて性的に興奮して耳と尻尾が出ちゃって、それから――同じように欲情して必死なこの人に、自分から触れたいと思ってしまったんだった。  ――愛撫。  というほどのものではなかったと思うんだけどっ。  艶めいた言葉に、なんだか落ち着かない気分にさせられる。それはルズガルも同じなようで、ふい、とそっぽを向いている。照れているのだろうか。  王子様なのだから、今までだってああいうことをしてきたんじゃないのかな。相手には全然困らないはずなのに。  ああいうこと――どんなことをしたのかが不意に思い出されて、ミュゼは慌てて話を変えた。 「あ、あの、これから、どこに?」 「どこにでも、おまえの望むところに」 「え?」 「当面の生活費も用意する。この国を離れて、ヤプシの手の届かないところまで送り届ける」  予想外の言葉に面食らってしまう。ルズガルは真摯な眼差しをこちらに向けた。 「正直、神判の花嫁なんてしきたりはとっくに滅びたと俺は思っていた。今回の件を強行したのはヤプシだ。ヤプシは守旧派で、王族の権威をもっと強めたいと思っている――それを望む支持者もいるからな」 「しゅきゅ……?」  難しい話にミュゼが戸惑っているのに気がついたのか「わかりやすく言うと、新しい国作りをしたい俺派と、古いやり方をしたいヤプシ派がいて対立している」とルズガルは説明してくれた。 「俺はもっと外交や技術革新に力を入れて、国を発展させたいと思っている。そのためには、あんな古くさいしきたりはないほうがいい。そもそも王は民のために存在してるのに、その王が民を苦しめるなんて、おかしな話だろう。百年前に花嫁が逃げ出したのももっともな話だ」  ミュゼは瞬いた。まさか王族の口から、逃げた花嫁を庇うような言葉が出るとは思わなかったからだ。  自分が悪いわけでもないのに、ずっと罪人のようにこそこそした暮らしを強いられた。それは到底、言葉ひとつで許されるようなものではなかったはずなのに、すっと胸が軽くなるような感覚があった。  国を発展させたいと語るルズガルの瞳が、まっすぐ未来に向かっているように見えたからだろうか。  誰とも深くかかわらずに隠れるように暮らし、この先もずっとそうする。そんな終りのない不条理の中にいたミュゼが初めて見た、微かな光だった。  生まれて初めて思いを馳せる、希望のある未来。  言いようのない感覚に、ミュゼが言葉を失っていると、それをどう受け止めたのか、ルズガルがまた気まずげにそっぽを向く。 「始めから隙を見て逃げてもらうつもりだったが、控えの間にヤプシの手の者がいて、あの夜のことは筒抜けになるから――初夜の儀式は避けられなかった。すまない」  あらたまって初夜とか言われると、またまた恥ずかしい。  ミュゼは話をそらした。 「えっと、あ、そう、そうだおばあちゃん! 祖母は無事なんでしょうか?」 ルズガルの顔は曇った。 「どうも対処が決まるまで礼拝堂に囚われているようだ」 「え、じゃあ」  自分が王宮から逃げ出したことが伝われば、危険が増すのではないか。  ルズガルの険しい表情は、ミュゼの憶測を裏付けていた。 「助けにいかなきゃ! 早く岸に着けてください!」 身を乗り出すと、ルズガルに首根っこを掴んで止められた。華奢なミュゼの体は、簡単に舟の中央に戻される。  前にもこんなことあった気がする。  忸怩たる思いでいると、ルズガルが告げた。 「もちろんそのつもりだ。まずは落ち着け。舟の方が距離を稼げる。夜明けまではこのまま移動だ。別件の調査で俺の協力者が各地にいるから、馬の手配もできる。今やるべき最善策は体力温存のために寝ることだ」 「寝るって、こんな状況で――」  冷静な武人らしい意見だとは思うが、ミュゼにはとても無理だ。反論すると、ルズガルは不意に身をかがめた。ミュゼの顎に手をかける。  じっと見つめられる。やはり、何度見ても金色の瞳は美しい。  え、なに。  もしかして、これ。  だって、しきたりなんてなくしたいって言ってたのに――  混乱と胸の高鳴りが苦しくて、目を閉じると、突然顔にぴしゃっと濡れた手ぬぐいが押し当てられた。 「頬を冷やさないと、これからどんどん腫れて、熟れた柘榴みたいになってしまうぞ」 「え、あ、はい」  殴られたからではなく、別の理由で頬がかっかとほてる。  どうしてこの状況で口づけされるとか思ったわけ、おれ――  生まれて初めてああいうことをしたからだろうか。  それはともかく、たしかに熟れた柘榴の外皮みたいに赤黒くなるのは困る。ミュゼはおとなしく船底に座り、濡れ手ぬぐいで頬を冷やした。じっとしていると、間もなく眠気も襲ってくる。結局ろくに眠れないまま恐ろしい目にあったのだ。変化に弱い家猫族の心身は、限界を迎えようとしている。  でも、ちゃんと連れて行ってくれるかどうかもわからないのに――  無理をして目を見開いていようと頑張るが、やっぱりどうしてもまぶたはくっつこうとする。舟の上で舟を漕いでいると、用意していたらしい毛布を頭からひっかぶらされた。 「寝ろ」  強引に横にならされる。「寝られません」と意固地に言い張ると、ぽんぽん、と毛布の上から叩かれた。寝かしつけられている。 「子供じゃないんれすけど……」  抵抗する語尾も、ちゃんと発音できたか怪しい。家猫族の体が恨めしかった。 仕方がない。今はこの人の言うことをきいて体力を温存して、岸に着いたら祖母を助けに行こう。  ルズガルが毛布を叩くリズムは、一定ではなかった。王子様は、こんなことには慣れていないのだろう。  でも、その下手くそさが、不思議と心地よかった。
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