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夫婦のふり
寝られません、と突っぱねたのは一体誰だったろうか。
「よく寝ていたな」
ルズガルに起されたとき、夜は既に明けていて、舟は岸に着けられていた。
「す、すみません」
「いや? 良かったという話だ」
嫌味かと思ったのに、そう返されて、調子が狂う。確かに眠ったおかげで少し体は楽になったし、顔も熟れた柘榴にならないで済んだ。手の甲の傷も、ほとんどふさがっている。興奮状態だったから出血が多かっただけで、そんなに深くなかったようだ。
ほっとした瞬間木々がざわざわと揺れて、ミュゼは身を固くした。ひとけのない木立の中に上陸したのに――そんな様子にルズガルが気づいて、苦笑する。
「安心しろ。俺の配下の者だ」
現れたのは、町人風の身なりの、若い男だった。
「ルズガル様――お耳が」
「ああ、フード付きの旅装はあるか?」
「すぐに手配致します」
半獣化のままずっと移動する気なのだろうか。
必要なときだけにすればいいのに。
ミュゼは不思議に思ったが、若い男はなにも訊ねなかった。言葉遣いや、ふと垣間見える仕草から察するに、元は身分ある人間で、以前からルズガルのために働いているのだろう。
調査のために配置してるって言ってたっけ。
なんのだろ? と思ったが、微かな疑問は配下の者の次の言葉で吹き飛んだ。
「ミュゼ様には女性用の旅装を用意しましょう」
「な、なんでですか?」
「その目を隠さないわけには」
そうだった。神判の花嫁の証、ダイクロイックアイ。これが見つかればまた騒ぎになる。村の市にちょっと出るくらいなら、ストールを被って俯いていればなんとかなるが、さらわれてきたときのことを思えば、道のりはまだ長い。
この辺りの女性用の旅装は、頭からすっぽり被るもので、目元だけ紗の布が縫い付けられている。中からの視界は確保されるが、特徴的なダイクロイックアイに気づかれる確率はかなり下がる。
というわけで、村まで女装で移動することになったミュゼだった。
「っていうか、ルズガル様も一緒に行くんですか?」
てっきり「送り届ける」なんて言葉のあやで、ここで金を与えられたらそれで終りだと思っていた。
「愚かなしきたりに巻き込んだ責任は取る」
ルズガルは旅装を整えながら応じる。刀の状態を確認すると、あらためて腰に刷いて馬に跨がった。
「偽の目撃情報も流して時間を稼ぐが、ヤプシの追っ手もじきに追いついてくるだろう。ひとりではきっと村までたどり着けない」
ヤプシ。その名前を出されると、体に染み込んでしまった恐怖がまたこみ上げてくる。ここは従うしかなかった。
ところで、もうひとつ問題があった。
「おれ、馬に乗ったことないです」
「なに?」
ルズガルは目を見開いた。
「だって、馬は高価だし。必要ないですし。村では農耕馬しか見たことないです」
「そうか……」
「問題ないのでは?」
と口を挟んだのは配下の者だった。
「一緒に乗ればいいんですよ。いっそ夫婦を演じたらいい。女性のひとり乗りのほうがこの辺りではむしろ目立ちます」
そう告げると、ルズガルは配下をきっと睨み付けた。しかし彼は「急ぎませんと」と言いながら肩をすくめただけで、怯まない。ルズガルは再度恨めしげに彼を一瞥すると「そうだな。仕方ない」と呟き、ミュゼの体を軽々と馬上に引っ張り上げた。
「ふぁ……!?」
「人目のないところでは飛ばすから、落ちないように気をつけてくれ」
「は、はい」
はい、と言ったものの、相手は山猫族の王族で、しかも昨夜性交未遂にまで及んだ相手だ。
馬の二人乗りは、当然体が密着する。
意識するとどうしたらいいかわからず、マントの背中をちまっと摘まんでいると、配下の者に「こうですよ」と腕を腰に回させられた。「こっちも」ともう片方も同様に引っ張られる。
自ずと、ルズガルの背中にぴったりと胸をくっつける格好になった。
子供の頃を除いて、祖母以外の人間とこんなにくっつくのは初めてだ。そう考えて、また昨夜のことを思い出してしまった。
あ、あれは、しきたりで仕方なくだから――
「道中お気をつけて」
なぜかとびきりの笑顔で告げる配下の者を、ルズガルは三度睨みつける。
どうしてだろうと思っている間に、馬は駆け出していた。
ルズガルの背中は温かかった。山猫族が獣化しているときは体温が高いと聞いたことがあるが、半獣化のときもそうらしい。
それから人のいない山間では可能な限り馬を飛ばし、人がいる村を抜けるときなどは、ルズガルはミュゼを前に座らせて進んだ。背中にくっつくのも緊張したが、くっつかれるのも緊張だった。体格差があるのはわかっていたが、こうもすっぽり胸の中に収まってしまうと、やっぱり落ち着かない。
熱い。やっぱり半獣化しているからだろうか。どくどくと心臓が早く打つ音も聞こえてきて――なんだかのぼせてしまいそうだ。
「熱があるな」
ミュゼの異変が緊張のせいではないと先に気がついたのは、ルズガルだった。
「え、あ、あれ……?」
「ずっと無理をさせていたし、体も打っていたからな」
言われてみれば、今になって体のあちこちが痛い。王宮を離れるまでは、気が張っていたのだろう。
「大丈夫です。はやく祖母のところに行かないと」
「宿を探そう。気は急くだろうが、無理をして結果的に遅くなるのは愚の骨頂だ」
ルズガルはそう言うと、途中の村でさっさと宿に入ってしまった。たしかに、祖母を助け出すのがうまく行けばいいが、司祭とやり合う可能性も考えると、体力は温存するに越したことはない。
基本的にルズガルは〈戦うためにはどうするべきか〉を考える性分のようだ。それだけ、危険にさらされてきたということなのだろう。
王子様なんて、煌びやかなお城の中にいて、美味しいものを沢山食べてるんだとしか思ってなかったな……
仕方がなかったとはいえ、なにも知らない自分の世界の狭さを恥じながら、ミュゼはルズガルのあとを追った。
「いらっしゃい」
「夫婦だ」
ルズガルがいきなりそう言い放ったから、ミュゼは旅装の中で目を瞠った。
きっと、夫婦を演じろと言われたことばかり頭にあって、つい口をついて出てしまったのだろう。王族らしからぬ真っ直ぐな性格が、ここでは思いきり禍している。
思い返してみれば、初めて宮殿の広間で顔を合せたあの日顔を逸らしたのも、あからさま過ぎた気がする。自分もさらわれて来たばかりで動転していたから、違和感に気づかなかったけれど、ルズガルは大変芝居が下手くそなのではないだろうか。
「夫婦だ」
ミュゼが記憶を探っているうちに、ルズガルは再び真顔でくり返した。
訊いてもいないうちからの申告に店主が固まっているのを、どうやら聞こえなかったと判断したらしい。
そうじゃないです、ルズガル様。
しかし、幸いにも店主は職業意識が高かった。すぐに我に返ると「ええ、ええ、お部屋は空いておりますよ」と迎え入れてくれる。ミュゼは旅装の中でほっと息をついた。
どきどきした。
主にルズガル様のせいで。
先を急ぐ気持ちはもちろんあるが、昨夜から受難続きだったのだ。個室でゆっくり休めるというのは正直有り難い。そんなことを考えながらドアを開け、ミュゼは部屋に入る。
もちろん、王宮の部屋に比べるべくもないが、雨風がしのげれば充分だ。
部屋の中には、寝台がひとつあるきりだった。
そうか、夫婦って強調したから。
いたたまれなさを感じるミュゼに、店主は耳打ちする。
「一番ベッドが丈夫で壁の厚い部屋になりますんで」
それからご丁寧にルズガルに意味ありげな肘打ちまで喰らわして去っていった。
「? 妙に気安い店主だな」
「……ですね」
この場合、他にどんな返答が適当なのか。
「寝台は君が使え」
「そんな」
ひとつしかない寝台を占領することになってしまう。
「俺はドアに背中を預けて寝るつもりだ。そのほうが万が一に備えられる」
放っておいたら今からもう座り込みそうだったので、ミュゼは慌ててそれをさえぎった。
「寝るときはそうするとして、取り敢えず今は座って休みませんか」
ルズガルは始め渋っていたが「王子様が座ってくれないと、庶民のおれは座れません!」と言い募ると、やっと座ってくれた。
ようやく人心地ついて、ミュゼは頭から被っていた旅装を解いた。ルズガルもフードを外し、耳をぷるぷるとさせる。やはり、ずっと被りっぱなしは煩わしいものらしい。
ミュゼはずっと疑問に思っていたことを口にしてみた。
「半獣化、解かないんですか? 解いたらフードいらないのに」
「道中は危険だから、このままでいい」
すぐに答えが返ってくる。やはり身体能力を上げるためにわざとそうしているようだ。
「でも、寝るときくらい……」
思わず手を伸ばしたときだった。
突然、ぶわっと、体の中がつむじ風に巻き込まれたような感覚に襲われた。
「ミュゼ、耳が――」
ルズガルが目を見開いたまま呟き、ミュゼはばっと自分の頭に触れてみた。柔らかな毛の感触――耳が生えている。
「疲れちゃったのかな。馬で楽させてもらった、のに――」
さっきまでなんともなかったのに、あっという間に声を出すのさえ苦しくなってしまう。血流が早くなって、胸が苦しいのだ。体がにわかにほてり出す。
見れば、ルズガルは険しい顔つきになり、腕をかざして鼻を覆っていた。
「この匂い――発情期だ」
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