神判の花嫁

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神判の花嫁

「おや、ミュゼ、しばらくぶりだね。まだ皮膚病が良くならないのかい? あんたんとこのばあさんは?」 「ちょっと風邪で……これ、注文貰ってた分です」  ミュゼは後半の質問にだけ応えると、本題を切り出した。大丈夫だとは思うが、なんとなく頭に被ったストールを直し、深く俯きながら。  ここはクルク王国はずれの小さな村。白茶の石積みの家が、山間のわずかな土地にひしめき合っている。ミュゼと祖母は数年前からこの村に流れ着き、山寄りの家に二人で暮らしていた。細々とした暮らしを支えるのは、裁縫仕事だ。特にオヤと呼ばれるモチーフ編みを得意としている。   花、月、星、果実や木の実。平面から立体的なものまでさまざまな意匠を編み上げるオヤは、日常使いのアクセサリーとして、ストールの縁飾りとして、需要があった。  この辺りの女性は常にストールで髪を覆う。おかげで男のミュゼが「皮膚病で」とストールを頭から被って歩いていても、悪目立ちしない。子供の頃から栄養が足りていたことなど一度もなく、もう二十歳なのに十六、七にしか見えない華奢な体つきのせいもあるだろうが。  店のおかみさんが、ミュゼの手から今週納品分のストールを受けとって、代金をくれる。ひい、ふう、と数えて、ミュゼは俯いたままおどおどと掌を差し出した。 「あ、あの、いつもより多いです」 「まったくあんたは」  おかみさんは大げさにため息をついてみせる。 「少ないならともかく、多くてそんなに慌てるんじゃないよ。あんたんとこのはすぐ売れるからね。次も多めに作ってもらおうと思ってさ。――特に百合、また頼むよ」  この辺りではまだ、義両親のいる家庭内で女性が自由にものを言えない風習が残っている。そんなときにもストールは活躍する。妻が百合の縁飾りがついたストールをつけているのは〈怒ってます〉ということで、それを見た夫は妻にやさしくしなければいけない。百合はこの国ではもう根絶した植物で、ミュゼもオヤ編みのモチーフのひとつとして知っているだけだ。見た目は高貴で美しいが、花も葉も球根も、花粉さえも猫にとっては猛毒で、何百年も前に王族が栽培を禁止した。  それが〈怒ってます〉のモチーフって、どんだけ……  と、いつも針を動かしながらうすら寒さを覚えるミュゼだった。  黄色も〈不満があります〉の意思表示に使われる。この二つはミュゼと祖母が作るストールの中でも常に人気だった。もっと立体的な、たとえば可愛らしく丸いベリーや木の実のモチーフをを編むのだってミュゼは得意なのに、ちょっと切ない。 「……結婚、こわい……」  思わず漏らすと、おかみさんは豪快に笑ったあと、再び声を潜めた。 「最近河川の氾濫があっただろ。ここに直接被害はないけど、あっちに出稼ぎで行ってる旦那が多い。仕事が減って稼ぎが減れば、嫁の機嫌は悪くなる。やっぱり王様が――おっとこれ以上はいけないね」  おかみさんの声の響きは、ミュゼに不敬の共犯者であることを求めていた。ミュゼはそれを曖昧に受け流すと、次回百合大量納品を約束してその場を離れた。  お金は、腹に巻いた帯の中に大事にしまう。ミュゼが普段身に着けているのは、生成りの袖なし肌着の上に麻の長衣。下はシャルワールというちょっと膨らんだズボン。痩せぎすですぐずり落ちるので、オヤで飾りをつけた布を帯としてぐるぐる巻いている。隠しポケットも縫い付けてあるから、この帯の中になんでも突っ込んでしまうのが、失くさなくて一番いい。  これでよし、とミュゼはお腹をぽんと叩く。  ――糸と、おばあちゃんに精のつく食べ物。それ買ったら、早く帰ろう。  ひき肉に香辛料を加えて焼いたキョフテか、羊の腸を細かく刻んで焼いたココレチか、ほうれん草とチーズを薄い生地に挟んだギョズレメか。もちろん、買えるのはどれかひとつだ。  考えながら進む途中に礼拝堂があって、ミュゼは足を止めた。壁面には、文字の読めない者にもわかりやすいよう、建国神話が描かれている。  むかしむかし、神は猫を寵愛した。自分の袖で眠ってしまった猫を起こさぬよう、袖のほうを切り落とすほど。  やがて地上に降ろされた猫は、山猫と家猫にわかれて進化した。  家猫族は、今ではほぼ人に近い。心身が不調なとき、それから発情期に、耳としっぽが出てしまうことがある程度だ。  山猫族は、発情期の他に任意で獣化できる。人の姿のときでも家猫族より体が大きく、身体能力も優れている。耳と尾だけを出した半獣化の状態でも、人型より聴覚や嗅覚の能力が上がる。獣化できるということは、戦闘にも強い。自然、歴史の流れの中で山猫族は家猫族を支配するようになっていった。  だから今この国の貴族や官僚はみな山猫族だ。中でも王族は、アルファと呼ばれるさらに強い属性を持つ者も多い。  絵を追いながら歩いていくと、端のほうには、明らかにそれまで描かれていた獣人より小柄な白い猫の獣人が描かれていた。もうすっかり色あせているが、その瞳は天色と金色半々――ダイクロイックアイに塗り分けられているはずだった。  ダイクロイックアイは、オメガの印。  貴族階級の山猫族と、庶民の家猫族が交わることは基本ない。  が、唯一の例外がこのダイクロイックアイを持つ家猫のオメガだ。家猫のオメガは〈神判の花嫁〉と呼ばれ、山猫族の王太子と交わってきた。  その代の王太子全員とだ。  何人もの王子と交わったオメガの体内で、強い精子のみが生き残る。強い精子を持つということは、強いオスであるということだ。つまり、オメガを孕ませることのできた王太子が、次期王に相応しい。  支配階級として進化した山猫族は、家猫族全体を見下している。しかしオメガは家猫族にしか生まれず、見つかるとすぐ王家に献上される。まだ年端もいかなかろうが、すでに伴侶がいようが、そんなことはおかまいなしだ  百年前の神判の花嫁は、それを嫌って、家猫の恋人と共に逃げ出した。  ここだけ壁画が薄れているのは、以来このしきたりが廃れ、塗り直しがされないからだった。  現王とその王子は神判の花嫁から生まれていない。最近水害が多いのは、そのせいではないかと噂されていた。  ミュゼは考える。  昔からのしきたりを覆してしまうほどの恋とは、どんなものだろう。  本当に天災が神に選ばれていない王のせいだというなら、家猫オメガの恋一つで世界を巻き込んでいることになる。  それに、百合と黄色のストールの売れ行きを見る限り、仮に好いた相手と結婚したって、なんだかその先もいろいろ大変そうだ。  だからますますわからなくなる。恋に一生をかけるなんて、それに一体どんな意味が?  王宮に連れて行かれるというのなら、少なくとも庶民よりいい暮らしを与えてもらえるだろう。食べ物だって与えてもらえるだろうに――  まあ、恋とか愛とか、おれには関係ないけど。  ミュゼの望みは、このままここでひっそりと暮らしていくことだ。ずっとそうだし、これからもそれ以外の生き方なんて考えられない。  なのに考えてしまったのは、祖母が体調を崩しているからかもしれない。たったひとりの身内の不調は、こちらも不安になる。  早く帰ろう。帰って家のすみっちょに収まって、黙々とオヤを編もう。ミュゼがストールを目深に被り直したとき、声をかけられた。 「ミュゼか? 久し振りじゃないか」  司祭だ。頭からストールを被っているのに気づかれてしまったのは、ストールを被っていようがいまいが、常に俯きがちな姿勢が以前からミュゼの特徴だったからだろう。 「学校に来なくなったから心配してたんだぞ」 「えっと、ちょっと皮膚病で、日に当たると良くないと思って」  学校といっても、司祭が手隙の際に近所の子供を集めて簡単な読み書きを教える程度の場だ。少し前までミュゼも参加していて、おかげで最低限の読み書きはなんとかなる。 「痕でも残っているのか? おまえの顔はとても可愛らしかったのに」  ストールに手をかけられそうになり、ミュゼはとっさに身を引いた。 「あ、す、すみません」  過剰に反応してしまっただろうか?  幸い司祭はさほど気に留める様子もなく「少し寄っていきなさい」と誘った。 「干し杏とクルミをたくさんもらったから、わけてあげよう」  そう言われてしまうと、それ以上断れなかった。両方とも今日風邪で臥せっている祖母の好物だ。甘酸っぱくてちょっとねっとりとした干し杏は熱を持った口の中をさっぱりさせてくれるだろうし、香ばしくてこっくりしたクルミは精がつく。  礼拝堂の司祭の部屋に入って、でもなるべく早く帰るつもりで立ったままでいると、司祭が 「ミュゼ」と呆れたように寄ってきた。 「またそんなに俯いて」  そんなことを言われても、ミュゼはひっそり目立たないように生きるのがすっかり癖になっている。ひっそりひっそり、目立たないように。――気づかれないように。  さらに俯いていると、司祭はそんなミュゼの肩に手を置いた。心なしか、力を込められたような気がする。ミュゼはたじろいだ。  なんだろう、この人ちょっと。  学校に通っていた頃、司祭はミュゼに特に良くしてくれていた。今日のように、食べ物を貰うこともあって、有り難いとは思っていたのだが、反面、なんだか不穏なものを感じてもいた。外に出られない〈ある理由〉ができなくても、きっと近いうちに通わなくなっていただろう。  司祭の手が、ミュゼの華奢な顎に触れる。 「可愛い顔を見せてごらん」  生臭い息がかかる。ミュゼは後ずさった。 「もっと仲良くしたかったのに、急に来なくなるなんてひどいじゃないか」  司祭の声は、不自然に粘ついていた。俯いていてもわかる。視線はまるで獲物を搦め捕ろうとする蛇のようだ。邪な欲望が透けて見えて、ミュゼは震えた。  逃げなくちゃ。  駆け出すより、司祭の動きの方が一瞬早かった。乱暴に腕を掴まれる。 「いっ……!」 「いい子だから、おとなしくしないか」  いやらしい猫なで声と裏腹に、司祭の力は強い。振り払おうともがいてもかなわず、ミュゼは壁際に追い詰められた。背中を打ち、ぐっと息が詰まる。  司祭はミュゼの体を壁に押しつけるようにして動きを封じ、唇を寄せてくる。下肢をがっちりと両足で挟まれて、動けない。 「やめてください……!」  抵抗も空しく、頭から被っていたストールを剥ぎ取られた。  まずい――  つい先ほどまで下卑た笑みに彩られていた司祭の目が、今は驚きに見開かれている。  司祭は呆然とミュゼを見つめたまま口にした。 「ダイクロイックアイ――ミュゼ、おまえは〈神判の花嫁〉なのか?」
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