やさしい王子

1/1
前へ
/14ページ
次へ

やさしい王子

 ふわふわの中にいる。こんなにふわふわなのは雲の上か、そうでなければお母さんのお腹の上かなあ。  母さんと父さんが死んだのは、おれが小さいころだから、本当はあんまり覚えてないけれど。  じゃあここはやっぱり雲の上なのか。  心地よい雲の上でころんころんしていると、誰かの視線を感じた。やさしい、慈しむような視線だ。  あれ、やっぱりお母さん?  お母さんはミュゼに顔を近づけて、頬を舐めた。どうやらいつのまにか伝っていた涙をそうやって拭ってくれたようだった。  それからお母さんは鼻先をミュゼの耳元に埋めて、すうっと匂いを嗅いだ。慰めて貰ったのはこちらなのに、満足したように深く深く息を吐く。その、安堵しきった様子にミュゼも嬉しくなってしまって、たまらず首根っこに抱きついた。  すると、お母さんの気配は逃げるようにすぐ離れて、どんどん遠くなっていった。  ああ、夢なんだ。  悟ってしまった瞬間、どこかから恐ろしい獣の唸り声が聞こえてくる。――ぐるぐると回りながらどこかに吸い込まれていきそうで、ミュゼははっと目を開いた。 「ああ、良かった、生きてた」  灰色の瞳が間近にあって、ミュゼは飛び起きた。つもりが、体は再び寝台に沈んでしまった。まったく力が入らない。その上、夢の中と同じ獣の唸り声が、ぐおおっと聞こえてくる。  その音の出所は、ミュゼの腹だ。  もちろん灰色の瞳の主――第二王子のヤプシもそのことに気がついて、一度大きく目を見開いたかと思うと、ぷっとふき出した。 「なにか食べるものを」  片手を上げて、振り返りもせずに告げる。ふかふかの寝台に身を沈めたミュゼからは見えなかったが、誰か控えていた者がいたらしく、すぐに料理が運ばれてきた。白っぽいスープ――アーモンドのスープだ。丁寧に皮をむいてすり潰してある。香りからして、ベースは鶏のようだった。 「しばらく食事をとっていないそうだから、まず体の負担にならないものを――」  ヤプシが言い終わる頃には、皿は空になってしまっていた。  灰色の瞳がまたしても見開かれている。 「す、すみません……!」  恥ずかしい。すみっちょに逃げたい。  なにしろ、こんなふかふかの布団でぐっすり眠った上に、丁寧な仕事のされた料理が目の前に出てきたのだ。欲望に勝てなかった。 「いや。――もう少し食べ応えのあるものを」  ヤプシが命じ、次に運ばれてきたのは、トマトで煮込んだ白いんげん豆と羊肉だった。トマト煮込みは家でもよく食べたが、肉が入っていることは滅多にない。添えられていたごま付きパンと一緒に綺麗に平らげる。デザートに、柘榴ののったミルクプティングを食べていると、噎せてしまった。 「すみません」 「謝ってばかりだね、君は」  指が伸びてきて、顎を掴んだかと思うと、ぺろっと口の端を舐められた。 「――ひっ」  な、舐められ、た……!? 「ああ、ごめんごめん。山猫族は獣の習性が抜けなくてだめだね」  一緒に紹介されたルズガルより柔らかな印象があるとはいえ、彼もまた山猫族なのだと思い知る。一瞬顔が引きつったのを悟られてしまったようだ。ヤプシは美しい顔を歪めた。 「百年も前に廃れたしきたりのために、君を乱暴に攫ってきたりしてごめん。僕からよく言っておいたから、君がこれ以上危険な目に遭うことはないはずだ」 「……ほ、ほんとうに?」  ヤプシは苦笑する。ミュゼの手からデザートの器をそっと奪うと、代わりに自分の手を添えた。安心させるかのように、ぽんぽん、と叩く。 「君のその美しい瞳に誓って」  じっと見つめられ、頬が熱を持つ。オメガに目覚めて、この瞳が現れてしまってから、以前にもまして俯いて過ごした。だから誰かにこんなふうにまっすぐ見つめられるのには慣れていない。  困る――。  すべての山猫族は、家猫族を見くだしているものだとばかり思っていた。それこそ、ルズガルのように、まるで目に入るのも汚らわしいと言わんばかりに顔を逸らされるのが当たり前だと。  こんな山猫族もいるんだ。自分と祖母は山猫族に見つからないようにと、それはそれは怯えて暮らしていたというのに。  ふと思い至った。 「あの、でしたら、祖母は。祖母も無事なんでしょうか。おれが家を出るとき、風邪をひいてて、酷くなってないか心配なんです。仕事も放り出して来ちゃったし、おれ、家に帰れますか」 「もちろん、僕から言って手厚く保護してもらおう。ただ、王の命令は絶対だ。君が〈神判の花嫁〉の務めを果たしてくれたらになってしまうけど……」  ヤプシが苦しそうに眉を下げる。 「今、災害が続いているだろう? そんなとき、絶えたと思っていた神判の花嫁が現れて、新たな王が決まれば、乱れた民の心も治まる。……協力してもらえないかな?」  首をかしげて顔をのぞき込まれる。灰色の瞳は相変わらず不安そうに揺れていた。身分の高い相手にそんな顔をされるのは、落ち着かなかった。 「務めを果たしたら、おば……祖母はその後ちゃんと保護してもらえますか?」  二人の王子と、交互に交わる。そして子供を産む。   性交どころか自慰だってろくにしたことがないミュゼにとって、それは想像もつかない世界だった。  でも、必要とされている。この人に。みんなに。神判の花嫁が王を選べば、災害がなくなって、国が治まるのだ。  それに、ずっと苦労しっぱなしの祖母だけでも、これからいい暮らしができるなら。隙間風も雨漏りもない部屋で、さっきみたいなご飯を食べさせてあげられるなら。  ヤプシの愁眉が開き、柔らかな笑みが顔にのる。気のせいか、いい香りまでしてきそうな、やさしい笑みだ。 「もちろん」  王子の片方がヤプシであったことは、せめてもの救いのような気がした。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

116人が本棚に入れています
本棚に追加