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やさしい笑顔のまま告げられた言葉の意味がわからず、ミュゼは体をよじった。
「あの、だから、そんなのもう必要なくて、おれ、帰りたくて」
必死の抵抗も、ヤプシの耳にはまるで届いていないようだった。間違いなく自分の上に覆い被さっているというのに、その目はどこか遠いところを見ている。
「ルズガルとはうまくいかなくて良かったよ。あいつのお古なんてごめんだと思ってたからさ。たった数ヶ月早く生まれただけで、あいつを兄と敬わなきゃいけないなんて、まったく不条理極まりない」
〈あいつのお古〉
やさしい笑顔のまま告げられる、下衆な言葉。笑顔がやさしい分恐ろしさが増して、ミュゼは飛び上がろうともがいた。その手をヤプシがきつく抑えつける。
「い……っ!」
さっきは、可哀想にって撫でてくれたのに。
ヤプシの灰色の瞳が、らんらんと光っている。狂気じみた色に。
「放してください……っ! おれ、おばあちゃんとこに帰ります……!」
ミュゼがさらに暴れると、ヤプシは頬を鋭く張った。
「……!」
柔らかな物腰からは想像もできない、容赦ない手つき。耳の奥ががんがんと鳴っている。
「帰る?」
ヤプシが鼻で笑った。
「おまえに帰るところなんてもうないよ。あのババアがおまえを売ったんだからな!」
やさしかったはずのヤプシの笑みが、これ以上ないくらい醜く歪む。ヤプシはもう一度ミュゼの頬を張った。
「さっさと股を開け。子種をたっぷり注いでやろう。――王になるのはこの俺だ」
――〈俺〉
ようやくミュゼは、ヤプシが自分を騙すためにやさしく振る舞っていたのだと察した。
ヤプシの舌が、ぞろっと首筋を舐め上げる。
「……!」
快感などみじんもなかった。ただひたすらおぞましくて、全身が総毛立つ。
「はな、せ!」
抵抗すると、今度は反対側の頬を張られた。それでも抵抗すると、また。当たり所が良くなかったらしく、口の端が切れて血が滲んだ。もみ合う物音は相当しているはずだが、誰も入ってこないのは、人払いがされたからだろう。
「まったく、なんで夜着じゃなくてこんな無粋なものを……」
ヤプシが忌々しげに吐き捨てて、帯に手をかける。ほんの少し生まれたその隙に彼を蹴飛ばすと、今度は首を絞められた。
「くは……っ」
「こっちは生殖能力さえ残っていればいいんだ」
このまま気を失うまで首を絞めて、ことに及ぶことができれば、その後寝たきりになっても構わないということだろう。
「いっそ先に噛んでしまうか」
とんでもないことを美しい顔で言ってのけるヤプシに、ミュゼは震え、手指を彷徨わせた。もみ合った際に帯が緩み、解けている端の部分に手が触れる。この帯も祖母と一緒に手仕事で作ったもので――
――そうだ。
「く……るし」
ミュゼは敢えてそう口にして、注意を引いた。もとより、嗜虐の気があるのだろう。案の定ヤプシの顔はに歪な笑みが浮かび、さらに強く首を絞めてくる。
その隙に、ミュゼは祖母と一緒に縫い付けた帯のオヤをまさぐった。練習を兼ねて、ミュゼの帯には様々なモチーフが付けられている。その中で、立体的に丸いベリーの形に作ったものを指で探し当てた。
中には、木天蓼(マタタビ)を練った丸薬が入っている。
野性の減った家猫族には、もう嗜好する者は少ないが、貴族は未だに好む者がいる。強い酩酊状態に陥る麻薬だ。とはいえ一度に大量摂取するのは毒なので、おおっぴらには取引されていない。もし、どうしようもなく困ったとき、売ってお金に換えるように昔祖母から与えられたものだった。
手探りで爪を立て、糸を解く。丸薬を包んでいた油紙を解いて、掌の中で押し潰す。
ミュゼはそれを、ヤプシの顔めがけて投げつけた。
「――、なに、を」
ヤプシが正確に言葉にできたのは、そこまでだった。じきに体がふらついてくる。
「おまえ……こんなものを……」
嗜好品ではあるが、大量摂取すれば死に至ることもある。この量を吸入したくらいではそこまではいかないが、一時的に体の自由を奪うくらいは期待できた。
幸い効果は絶大で、ヤプシの体はぐらぐらと揺れるのをやめたかと思うと、そのまま前のめりに寝台の上に倒れ込んだ。
「……はっ、はっ」
ミュゼはやっと息を吸い込んだ。ずっと締め付けられていたから、声も出せない。それでも力を振り絞って立ち上がる。
――逃げなきゃ。
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