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嘘
ミュゼの掠れた声にルズガルは振り返り、キッとこちらを睨みつけた。
――ひっ。
ミュゼが震え上がっている間に、新たな足音と木々をかきわける音が聞こえてくる。ルズガルは唇の前に指を立てたあと、その指で木々の奥を指し示した。向こうへ行くぞ、ということらしい。
ミュゼは痛む体を励まし、そろりと起き上がる。瞬間、気が遠くなるような痛みが全身を襲ったが、幸い骨が折れたりはしていないようだ。途中木の枝にぶつかりながら落ちたのが、うまく衝撃を弱めてくれたのかもしれなかった。
にじみ出た冷や汗を拭おうとして、ミュゼは手の甲に巻いた包帯が緩んでいることに気がついた。
そうだ。この人だっておれのこと傷つけた――
ぞく、と悪寒が走る。
でも――
『両膝から下落としとくか?』
――それよりは、たぶんマシ。
新手の気配はどんどん近くなる。ミュゼは覚悟を決めてルズガルのあとを追った。
ミュゼを先導するルズガルの動きには、無駄が無かった。もとより敷地のことを知り尽くしているのだろうが、耳と尻尾が出ている。判獣化して、身体能力を引き出しているのだ。事実、一度もかち合うこともなく追っ手の気配は徐々に遠くなり、やがてたどり着いたのは、川に繋がるよう設けられた船着き場だった。小舟が用意されている。
「乗れ。ひとまずここを離れるぞ」
ミュゼに他に案があるわけもなく、怯えつつも従って川に出た。追っ手の舟などはないようだ。
王宮の全景が小さく見えるほど離れてから、ミュゼはやっとひと息ついた。
大きなため息が聞こえたのだろう。ルズガルの耳がピクリと動いて、こちらを向いた。金色の片目が不快げに歪む。
たしかに、ヤプシの追っ手からは逃げられた。が、今度はルズガルと一緒。しかもここは舟の上。
に、逃げ場がないよう……!
舟の上、可能な限りすみっちょに寄って縮こまる。ルズガルがずい、と不愉快そうな顔を近づけた。
「――その顔は、ヤプシが?」
「え、あ、はい」
今の今まで忘れていたが、あらためて指摘されると、思い出したように痛む。応じると、ルズガルはなにかに気がついた様子で、さらに険しい顔になった。
「首も――」
痕が残っているのだろう。
「ああ、はい、ちょっと、締められて――」
ちょっとなどというものではなかったが。そう呟くと、急に恐ろしさがよみがえってきた。
こそこそと、世の中に対してどこか後ろめたい気持ちで生きてきたものの、あんなにあからさまな悪意をぶつけられたことはない。
〈神判の花嫁〉。呼び名こそ立派なものの、その実態は大事にされるどころか、人間扱いされない。自分たちの体面のために生む機械にさせられる。生殖能力さえあれば、両膝から下を落としてもいい、なんて。
痛かったし、苦しかった。
でもそれよりなによりつらかったのは『おまえに帰るところなんてもうないよ。あのババアがおまえを売ったんだからな!』という言葉だ。
――おばあちゃん。
やさしいとか、あったかいとか、そういうタイプではなかった。とにかく目立つなと厳命されていたし、それを破ると容赦なく折檻された。
それでも、ミュゼに生きる糧であるオヤを教えてくれたし、木天蓼を始めとする薬草の知識も授けてくれた。厳しいのは、自分のためにそうしてくれているのだ。人目を避けて不自由に暮らさなければいけないのは祖母も同じ。なんならいっそ、ミュゼなど捨ててしまったほうが生きるのは楽だったろう。だから、せめて残りの人生いい暮らしをして欲しいと思ったのに。
――逃げたって、おれにはもう行くところなんて。
深夜のことで、辺りは静まり帰っている。川幅は広く、流れはゆったりしていたが、それが今のミュゼにはかえって恐ろしく感じられた。終りのない静寂に飲み込まれてしまいそうで。
おれはこの世にひとりぼっちだ。
おれ、なんのために生まれてきたんだろう。
自分で望んだわけでもないのに、オメガなんかに生まれついて。
不意に気配が近づいてきて、ミュゼは我に返った。
よける間もなく、ぺろっと頬を舐められる。
それで、ミュゼは自分が泣いていたことに初めて気がついた。
それにしたって、舐めるなんて――やっぱり山猫族の人は野性が強く残ってる。
ミュゼは「ん?」と首を傾げた。
涙を舐められるのが、初めてではない気がしたからだ。ヤプシにも口の端を舐められたりしたが、それとは違う気がした。
お母さんかな? と思った。もう消えかけた、わずかに残った記憶の中の母はいつでもやさしい。涙を舐めてくれたこともあったかもしれない。
でもなにかしっくりこない。あったかどうかもわからない、そんな遠い記憶とは種類が違う気がした。そう、もっと最近――
駄目だ。思い出せない。今日は恐ろしいことがいっぱいあったから、自分の心許ない脳味噌では、処理が追いつかないのだろう。
「酷い目に遭わせてすまない」
ルズガルの低い声が、静寂の中にやさしく落ちた。突然のことにミュゼがさっきまで考えていたことを忘れて固まっていると、ルズガルはミュゼの手をとって、額に押し当てる。包帯をほどくと、現れたひっかき傷を、これまた舐める。
すまない。
まさかルズガルに謝られるとは思ってもみず、ミュゼは手を引っ込める。
「あの、ちが、泣いたのは、おばあちゃ――祖母のことを思い出して」
「……両親はすでに亡くなっているんだったな。祖母と二人暮らしだったとか」
確認するように呟かれて、ミュゼは意外に思う。
ちゃんとそこ、調べてあるんだ。
てっきり〈生殖能力に問題がなければ、片足だろうが顔が潰れようが問題ない〉は王族みんなの共通認識だと思っていた。名前同様、個人の情報を気に留めているとは、思ってもみなかったのだ。
ミュゼは頷く。唇から漏れたのは、苦笑交じりの自虐だった。
「祖母にももう裏切られて、天涯孤独になっちゃいましたけど」
ルズガルの耳が、ぴくりと動く。
この人に言っても仕方ないことを言ってしまった。詫びようとしたとき、ルズガルが瞬いた。
「裏切られた? なんの話だ?」
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