あの日の子供
ヤプシとその一党、司祭はあとからやってきたルズガルの兵に取り押さえられて、祖母が繋がれていた地下に繋がれている。まさに悪因悪果だ。ミュゼは数日振りに祖母と暮らした家に戻った。
ルズガルは、ミュゼの粗末な寝台に寝かされている。獣の姿のままで。
獣になったルズガルはヤプシを後から来た臣下に引き渡し、もう逃げられないというところまで見届けてから、その体を草むらに横たえた。それから、一度も目を開けていない。
「これはたぶん、百合の毒だね。鏃に塗ってあったんだろう」
ルズガルの様子を見てそう言ったのは、祖母だ。
「百合……?」
それは大昔に滅んだはずの花。オヤのモチーフとしてしか知らない、あの花のことだろうか。
「木天蓼がなくならないように、百合もどこかに残っていたんだろうね。暗殺になんかに使えるからね」
表向きには滅びたことにし、貴族や王族の一部だけが所持する。ありそうな話だった。
「ど、どうしよう」
そんな毒なら、もちろん解毒剤はすぐ手には入らない。
「どうしてルズガル様がおれなんかのためにこんな目にーー」
ルズガルは、王族が民を苦しめてはいけないと言っていた。だからって、ただの民でしかないミュゼのために命を危険にさらすなんて、あまりに考えなし過ぎる。
ルズガルはまだ生きてやならければならないことが山ほどあるはずなのに。守旧派を一掃して、国を豊かにするんだと言っていたのに。
嘆くミュゼに、エムレが言いにくそうに口を開く。
「言うなって言われてたんですけど、ルズガル様はずっとミュゼ様を探していたんですよ」
「それは」
どういう意味だろう。ルズガルは神判の花嫁を欲してはいなかったんじゃないのか。
ミュゼの表情から思い違いを察したのだろう。エムレは慌てた様子で顔の前で手を振った。
「神判の花嫁としてではなくーーそうですね、初恋の相手というか、命の恩人というか」
それから、エムレは話してくれた。
子供の頃、ルズガルは誰が放ったかわからない弓で目を射抜かれた。鷹狩りに行った際のことだ。
鷹狩りという催し上、たまたま一人になったところを狙われたのだ。秋草の中に小さな体は隠れてしまい、しばらくは誰もルズガルのことを見つけられなかった。
当然ながら、大怪我だった。子供だったこともあり、体力はどんどん失われて、ルズガルの体は獣の姿になっていたという。
そこへ、通りかかった子供がいた。
背の高い草むらの中に、なぜか分け入ってきたのだ。
おそらくは自分より年下の、四、五歳だろうか。その子供は、血にまみれて恐ろしい姿をしているだろう自分を見、逃げ出すどころかどこかへ運ぼうと試みたらしい。
しかし、子供は酷く痩せていた。ろくに食事もしていないのかもしれない。横たわるルズガルの体に恐る恐る触れ、持ち上げようと試みるも、勢い余って自分が尻もちをついてしまう始末。
それでも何度も何度も挑んで、貧しい衣服の尻がすっかり汚れてしまっても、彼は挑戦をやめようとしなかった。
やがてそんな彼を呼ぶ声がした。
どこにいるの。早く移動するよ。見つかってしまうよ、と。
子供は声のしたほうとルズガルの姿とを何度も交互に見ーーやがて、大粒の涙をぶわっと瞳にあふれさせた。
子供は、子供なのに、声を出さずに泣いていた。たまたまではない。訓練の上でそうしているのだと、ルズガルにはわかった。ーー自分も、同じだったから。
しかし、自分は王族だ。感情を、弱さを、簡単に人に見せてはいけない。それが命取りになるからと、幼い頃から訓練されてきた。
だが、この子供は?
見るからに庶民のこの子供が、声を出さずに泣くのはなぜなのだろう。
感情をあらわにしない術を学び、身につけても、感情が消えるわけではない。
悲しみ、恐れ、そういったものを表に出さずにいると、だんだん小さな体の中はそれらでいっぱいになり、ぎりぎりで押さえつけられることになる。それは苦しいことだった。
その苦しみを知っているからこそ、子供から目が離せなくなった。
己の無力さを詫びるようにきらきらの涙を流した子供は、何度もふり返りながら、声のしたほうに消えていった。
再び瀕死で取り残されたルズガルだったが、どうしても子供のあとを追いたくなった。なんとか立ち上がったところで臣下に発見されたのだ。
王子が大怪我を負ったのに、鷹狩りは中断されずに全日程が行われた。そういう〈しきたり〉だから、と。
都に帰ってからも、誰も罰せられなかった。
自分の子を少しでも王位継承に近づけたいという、愛妾の誰かの差し金だということは、わかりきっている。
だからこそ犯人捜しはしないという王の判断だった。そんな「よくあることに手を煩わせたくない」と。
そんな伏魔殿に暮らして、思い出すのはあの日の子供のこと。
あのとき、見ず知らずの獣のために子供は泣いていた。自分の無力さに絶望して。それでも声も出さずに。幼さと賢さが不思議と同居していた子供。
どんなふうに暮らしたら、そうなるのだろう。家族は? 名前は? どこに暮らしているの? 泣いていてさえあんなに美しいのだから、笑ったら、どんなに可愛いのか見てみたいーー
山猫の城は、宝石が散りばめられている。植物は山猫族にとって毒になるものが多いから、歴史の中で自ずとそうなったと言われていた。そんな城中のどんな宝石より、あの日見た涙は美しかった。尊かった。
王位になんて興味はなかったけれど、この国のどこかにあの子がいるのなら、生き抜いて王になろうと思った。
そうして、笑顔のあの子に会えるような国にするのだ。
「鷹狩りのお話は聞いたことあります。片目は、そのときの傷だって。でも、おれ全然そんな記憶が」
その疑問に答えたのは祖母だった。
「あれは、当時暮らしていた村の近くに王族が来るっていうんで、急いで移動する途中だったんだよ。たしかに、風に揺られる秋草に誘われてあんたが草むらに入ってしまったことがあった。そのあと、環境の変化に弱いあんたは何日も熱を出して寝込んだんだ。そのせいで記憶が消えてしまったんだろう」
「な、なるほど……」
秋草に誘われて。恥ずかしい。今すぐすみっちょに挟まりたい。
「ルズガル様は、信頼できる臣下を動かせるようになってから、あの日の子供を探せとお命じになられました。そうは言っても名前も性別も年齢もわからなかったですし、雲をつかむような話でしたよ。その上転々としていたなら、見つからないわけですね。偶然にもあなたが神判の花嫁であるとわかるまで」
ミュゼが神判の花嫁として見つかって、ルズガルは喜ぶどころか苦悩していたという。
命の恩人なのに、酷い因習に巻き込むことになる。と。
だから最後まで抱こうとはしなかったのかーー
ヤプシの口にした『よほど大事』という言葉がよみがえった。それが本当ならーー嬉しい。
いやいや、とミュゼは心の中でかぶりを振った。今は胸の中にじんわり湧き出す気持ちを呑気に味わっている場合じゃない。
「ルズガル様は、生きて王にならないといけない人です。なんとか解毒剤を探さないと」
「そうだね。思いつく限りの薬草を揃えよう。村の人たちにも頼んで」
今までなら、村の人たちに頼み事などできなかった。目立たないよう、印象に残らないよう、接触を避けて生きて来たから。
でも、今なら出来る。高揚を感じながら、ミュゼと祖母があれこれと知識を総動員している と、エムレが不意に「あ」と声を上げた。
「なにか思い当たる節があるんですか?」
「いえ……もしかしたら、という程度ですし、ルズガル様はそれを喜ばないと……」
「教えてください!」
食い下がると、エムレは諦めたように続きを口にする。
「百合は獣には猛毒です。ならーー人の姿に戻ったら、無効化したりしないかな、と」
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