縫沫夢幻

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縫沫夢幻

 愛してる。結婚してください。  そう言って、大きな狼が私の手を取った。  ◇◇◇◇  婚約者だったライカが自殺して2年。ショックで体調を崩したまま立ち直れなかったカイラは、巷で話題の最新技術に縋った。――つまり、ライカとそっくり同じ人格のアンドロイドを創り出したのだ。  但し、この国では余りにも精巧な人型アンドロイドは許可されていない。――嘗て、アンドロイドに殺人を犯させる犯罪組織が横行したためだ。人混みに紛れ、高等なCPUと器用な手先で速やかに殺しを遂行するアンドロイドは、民衆を狂乱に陥れた。人間の殺し屋相手なら、僅かな不審な動きをカメラで検知出来るだろう。しかしアンドロイドたちの擬態は完璧だった。誰も犯行の瞬間まで、否、命が摘み取られる瞬間まで、異常に気付けなかった。  そうして何人もの命が奪われた結果、コミカルで目立つ容姿且つ、もこもこして細かな作業のできない、ぬいぐるみ型アンドロイドのみが製造を許可されるようになったのだ。今や街中はぬいぐるみ型アンドロイドで溢れ、故人の記憶性格複写術はありふれたものとなっている。  カイラはライカの好きだった狼のぬいぐるみを発注し、思考回路にライカの性格を埋め込んだ。そうして、生前のライカのように話し、ライカのように自分を愛してくれる、完璧なぬいぐるみを創り上げた。当然、狼はライカと名付けられた。銀色の毛並みを持つ四足歩行の狼を、カイラは溺愛し始めた。  それは幸せな日々だった。2年間の空白が嘘のように、カイラはぬいぐるみに甘え、ぬいぐるみを甘やかした。ライカを喪った虚無が上書きされる錯覚を覚えた。  私がいなくても大丈夫、そう言い残して消えたライカに、大丈夫なんかじゃないと言ってやりたかった。カイラがどれほど後悔しているか分からせたかった。  そんなに自分は、彼女に頼っていないように見えただろうか。そんなに、平然としていたのか。……やはり私が役立たずだったから、期待を裏切ったから、いなくなったのかもしれない。  カイラは何度も『ライカ』に訴え、ふわふわの体に顔を埋め、よしよしと慰められた。  ――しかし、狼に泣き付いて慰められるたびに、彼女は虚しくなっていく。愛しい人とそっくり同じ言葉に仕草。それでも、カイラが本当に全部を知ってほしかった人は、二度と何も分かってくれない。――所詮、狼はコピーに過ぎないのだ。だがそうと分かっていても、優しい狼に縋らずにいられるほどカイラは強くなかった。  そうして自分を欺きながら、更に2年が過ぎていた。まだ寒さの残る初春の候、カイラは『ライカ』と小旅行に出た。いつか本物のライカと訪れた、欧風の古城レストラン。遠い昔、シンデレラ城と呼ばれた城がモチーフだ。  罅割れた煉瓦や這い回る蔦という、未だアナログな魅力で人気を博す其処で、狼のライカはカイラに婚約指輪を差し出した。 「愛してる。結婚してください」  素っ気ない文句に、否応なく彼女の面影が重なる。カイラ自身がそう創ったのだから、狼が彼女そっくりに振る舞うのは当然だった。待ちに待った瞬間。心から嬉しい、愛しいはずなのに、心臓の何処かが軋み始める。  ◇◇◇◇  ……このまま微温湯に浸かっていたい。  ……彼女の幻想に抱かれていたい。  ――けれどこれは、本当に自分の婚約者だろうか。本物のライカの魂は何処かに行ってしまい、自分など見てくれてはいないかもしれないのに。それに、ここで婚約してしまえば、カイラは永久に自分の罪と後悔に囚われることになるだろう。  ……だがこの先、自分がライカ以外に惚れることは考えられなかった。仮にそんなことがあるとしても、余程先の話で。婚約を断り、またしてもライカを失えば、そのときまでカイラ自身の精神が保つとは思えなかった。  肌触りの良いふわふわの毛並みは、甘い蜜のようにカイラを誘う。カイラを見詰める琥珀色の双眸は、まるで悪魔の囁きを体現したかのようだった。  ――カイラも、本当は何処かで分かっていた。自分の犯した過ちは決して取り返せず、過去の幻想に縋っても何一つとして変わらない。あの日、ライカを引き止められたとして、カイラに彼女を救うことは出来なかった。だからこそカイラは諦めてしまったのだ。折角予告されたにもかかわらず、去っていくライカに縋れなかった。納得した上でライカを手放してしまった。……だというのに、もし一緒にいてほしいと言っていたら、と悔いることを辞められない。  そんな、自ら彼女を手放した罪悪感と虚しさから逃れるために、カイラは新たなライカを産み出した。ただ、彼女を取り戻したい一心で。血の滲む、身体のどこかに空いた穴を塞ぎたくて。  胡散臭い同情なんか要らなかった。自分たちの関係に、浅薄な名前など付けてほしくなかった。だから誰にも相談せず、カイラは何もかも背負っていくつもりだった。  ……つまりこれは、自分に都合の良い幻を追い続けた報いなのだ。今まで通り、ずるずると同じ生活が続くものと思っていたのに。結局、選択は避けられない。  それでも自分の勝手で喪ったくせに、どこまでも身勝手な性分だった。いつか泡と消えるはずの蜜に、このまま縋り続けたくて仕方ない。  眼前で首を傾げる狼と、前足で器用に持たれた煌めく指輪を見詰める。長年のストレスにより、とうとうカイラの見る景色が歪み始める。  ……どちらを選べばいいのだろう。  寂寥や欲望に苛まれ、ぐるぐると激しく渦を巻く世界の中で、カイラは震える手を伸ばしたのだった。
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